堂島家の前へ辿り着くと、完二は少しもためらわずに威勢よく玄関の引き戸を開けた。
(ホントだ、開いてる……)
いくら稲羽が田舎だからといって、鍵もかけず家を出るのはさすがに不用心すぎる。
(だいたい稲羽の連中、開いてると入ってくるし)
隣近所が妙に気安いことには、まだ慣れない。だけど、うっかり戸を開けっ放しにして、完二が家の中を覗き込まなければ、こうして会うこともなかったかもしれない。
(……いつまでああして外にいるつもりだったんだろう、俺は)
電話の音を聞いていたくなくて、家にいるのが怖くて飛び出しただけで、他にはなにも考えていなかった。こんなことは初めてだから、少し困る。
(気をつけないと)
この家にはいま、俺しかいないのだから。
──俺しか。
「先輩、いつまでそこに突っ立ってンすか」
顔を上げると、完二がいぶかしげに首を傾げていた。
「寒いだろーが」
「わっ……」
ぐい、っと急に腕を引かれ、俺はつんのめるように玄関へ飛び込んだ。完二が手早く後ろ手で戸を閉める。
廊下は、暗かった。
それに寒い。
(当たり前だ)
どこにも電気がついていない。暖房も入っていない。人いきれもない。
家にはいま、誰もいない──。
「お邪魔しゃースッ!」
真後ろにいた完二が、いきなりバカでかい声で叫んだ。ビックリして、俺は文字通り飛び上がった。
「……なんスか、その顔。俺、上がっちゃマズいッスか」
「いや、いいけど」
目を丸くしてまばたいている俺を他所に、完二は靴を脱いで蹴散らし、さっさと家の中へ上がり込んだ。
「さくっと着替えてこいよ。制服」
ちらりとこちらを見てそう言うと、彼は居間へとずんずん入って行った。ほどなく明かりがついて、廊下に黄色っぽい明かりが漏れてくる。
「……うん、まあ、別にいいんだけど」
背中を見送りながら言ったら、まるで俺が独りごちたみたいだった。
(なんだ……帰らないのか)
少しホッとして、俺は二階へ行く階段を上った。
自分の部屋の扉も開けっ放しだった。どれだけ焦っていたのだろうと我ながら呆れつつ、ふすまの縁へ引っかけてあるハンガーに詰め襟を吊した。
真っ暗な部屋には、通学鞄が投げ出してある。帰ってきたときに置いたままだ。その脇に置いてある部活用のスポーツバッグの口は開いていて、汗で汚れた体操着とジャージが几帳面な具合に畳んで積んである。
(めちゃくちゃだな)
思わず苦笑した。
(なにやってんだ、俺)
たぶん、途中までは無意識でやったのだろう。そのあとなにを思って手を止めたのか、どれくらい座り込んでいたのか、よく覚えていない。ひとりでいると、時間の境目がなくなってしまう。静かすぎて。
車庫も、門扉も、ポストも、庭木の葉影も、屋根の上も、電柱の下も。
廊下も、階段も、居間も、台所も、玄関も、風呂も、箪笥の中も。
いくら耳を澄ませても、なにも聞こえない。
けれど、夜だけじゃない。明け離れるころも、夕さり方も、音がない。
(だから電話の音が余計大きく聞こえて、ビックリしたんだ)
それにこのところ、稲羽の町全体がどこかひっそりかんとしている気さえするのだ。喧しいほど鳴いていた虫の声でさえ、いつしかすっかり遠くなってしまった。
(冬が来たから、だけじゃない……たぶん)
きっとこの、おかしな霧のせいだ。
(でも、どうして)
犯人は生田目だ。そうに決まっている。あとに残った問題は事件をどう立件するか、だ。それだけのはず。
(じゃあ、なんで)
犯人は倒した。なのに、事態はよりいっそう深刻化している。
霧は刻々と酷くなっていて、もう何日も太陽を見ていない。月も。道を歩くひともどこか憂鬱そうで、町は文字通り白い闇へずっしりと沈んでいる。
早くなんとかして手を打たないと手遅れになる。そんな気がする。
実際──手遅れになっている。
(遼太郎さん……菜々ちゃん)
堂島は大怪我をして身動きも危うく、菜々子に至っては一日のほとんどを寝て過ごしていてまともに話すことすらできない。
(「おかえり、お兄ちゃん!」)
静まりかえって声のしない居間。
(「おぅ、いま帰ったぞ」)
夜更けになっても開かない玄関の扉。
(「おかえりなさい」)
(「おやすみ」)
(「おはよう」)
この家の中は毎日誰かしらの息づかいがあって、外はいつもなにか生き物の気配がしていて、優しくて静かな音に満たされて暖かかった。
(「俺たちは家族だ」)
あのとき大まじめに言って照れる堂島の顔があまりにこそばゆくて、つい笑ってしまったけれど。
俺の方こそ、家はひとが居るただの箱じゃなくて、家を形作っているのは家族なんだってことを、全然わかってなかった。
ここは居心地がよすぎて、なにもかもがうまく行きすぎていたから。
怖いものなんてひとつもなかった。
(なんてガキくさかったんだろう)
俺はいままで、なにも持たずに歩いて来た。だから、失う心配なんてしなくてよかった。
住む家ならもちろんあった。辛い風や雨を遮ってくれて、寒さをしのぐために暖を取れる場所、という意味の。けれども、それだけだ。第一そこは俺のものじゃない。子供の持ち物なんて、本当はたいてい全部親のものだ。そんなもの全然自分のものじゃない。単に、所属しているから名前が横に書き連ねてあるというだけ。ルールもヒエラルキーも、なにひとつ自分の思い通りにはならない。学校だって同じだ。所属することは義務で、定められた序列から無理にはみ出しても摩擦を生むだけで、それに見合うメリットがあるとは思えない。
だからといって、大人になることにそれほど夢があるわけじゃない。成人して、社会人と呼ばれるようになってもきっといまと状況はさほど変わらないだろうと思う。家庭を築いてささやかな自分の領土を持つくらいはできても、結局はさらに大きな社会のルールとヒエラルキーの下に隷属することを強いられる。自分が好きにできることなど一握りで、周囲とどうにか折り合いをつけて生きていかなくてはならないことが大半のはずだ。
誰かが作った屋根に入れてもらいつつ、雨と風をしのぎながら、たまに晴れれば歩く。誰の邪魔にもならないように水たまりを器用に避け、着実な足取りで乾いた土を踏み、そうして一番マシな道を探しながら、仮の宿を転々として行けるところまで行く。人生なんて、ただ、それだけのこと。
だからどこに行って誰と住もうが自分は少しも変わらないのだと──たかだか一年やそこら、どこへ行ってもなにがあっても、平気で乗りこなせるものだと信じて疑いもしなかった。
けれど、稲羽に来てたった半年の間に、俺は音が途絶えた洞穴みたいな部屋の居心地悪さも、たったひとりで過ごす夜の味気なさも、ひとりで食べる飯のまずさもとっくに忘れてしまっていた。
(そんなの、いままで気にしたこともなかったのに)
なにより、空っぽの堂島家なんて想像もしていなかった。
空っぽなことにショックを受ける自分も。
(まして、遼太郎さんや菜々ちゃんが俺のやったことに巻き込まれるなんて……死ぬかもしれないなんて、思ってもみなかった)
稲羽へ来てからずっと、マヨナカテレビの世界でシャドウと戦ってきた。危険なことはもちろん何度もあったし、痛みもたくさん味わった。
けれど、内心ではそれほど気負っていたわけじゃない。
たとえ受けた傷がいくら酷くても、半ばで仲間が力尽きても、心配する必要はなかった。
(戦い終わったとき俺が息をしていれば、それでいい)
俺のペルソナの力さえあれば、シャドウとの戦いで受けた傷はあっという間に治してしまえる。
だから俺は、自分のことだけを考えて戦っていればよかった。余力があるときは仲間に少しだけ気を配って、効率がよくなるように考える程度で充分だった。
なのに、たったそれだけのことをしているだけで、みんなは俺をずいぶんと褒めてくれて、優しくしてくれた。特別扱いしてくれた。
確かにあの世界で、俺は特別だ。俺だけが、誰よりも余分に力を与えられている。理由は知らない。俺が苦労して得た力でもないし、欲しくてねだったわけでもない。
けれど、気分は悪くなかった。褒められるのは、戦うのは──勝つのは楽しかった。
(負ける気なんて、少しもしなかったから)
俺はひとりでいくつものペルソナを操ってなんでもできる。
マヨナカテレビの世界は、俺が好き勝手できる都合のいいところだった。
(面白くて、笑いが止まらなかった)
強い敵を倒して仲間を助ければゲームをクリアしたような達成感があったし、謎に迫っていく手応えを感じれば昂揚感が得られた。
──ただしそれは、マヨナカテレビの中でだけ。
(あんまり気持ちよくて忘れてたんだ……たぶん)
殺人事件はどれも全部、現実世界で起きていたのに。
犯人──生田目は、マヨナカテレビと現実世界の両方に干渉している。運送業という隠れ蓑を利用して自らひとを浚っては、テレビの中へ何人も突き落とし続けていた。天城も完二もりせも直斗も、シャドウに食われてあやうく死ぬところだった。放っておいたら三人とも早晩、電柱にぶら下がっていただろう。山野真由美や小西早紀のように。マヨナカテレビで戦う術があったから、辛うじて助けることができただけの話だ。
その証拠に、あれだけ事件を警戒していたにもかかわらず、俺は誰かがテレビに突き落とされることそのものを一度だって食い止められた試しがない。
いままでの犯行にどんな理由や共通点があったにせよ、次の犠牲者が誰になるかは犯人の胸ひとつだった。なのに。
(俺は、堂島家だけは、なにがあっても無事だと思い込んでた)
明らかに脅迫めいた手紙が届いたときも、まさかふたりが巻き添えを食って傷つくなんて考えもしなかった。
(『コレイジョウ タスケルナ』)
あの手紙は明らかに、俺たちの行動に釘を刺す内容だった。
(『コンドコソ ヤメナイト ダイジナヒトガ イレラレテ コロサレルヨ』)
俺を目がけて放たれた悪意。でも、狙いは俺じゃない。
きちんと読めばわかることだった。
なのにあのときの俺は、たとえなにが起こっても自分の力でなんとかできるものと信じていた。
たぶん、心のどこかで、俺は特別だと思っていたせいだ。
(俺は現実をどうこうできるわけじゃないのに)
特殊な力を振るえるのは、あくまでマヨナカテレビの中でだけだ。現実で俺にできることと言えば、せいぜい周囲に気を配ることぐらい。
だけどあのときの俺はなにもわかっていなかった。
自分にとって大切なものがなんなのか、なんて、簡単なことすら。
その結果が、これだ。
まるで嘲笑うようかのように目と鼻の先でまんまと菜々子をかすめ取られ、頭に血が上った堂島を止めることもできなかった。
(俺が自分のことしか考えていなかったせい)
いまこの家には俺ひとりしかいない。
この家が廃墟みたいになってしまったのは、自分が迂闊だったせいだ。当たり前に見えた日常が、こんな簡単に壊れるなんて思いもしなかった。
当たり前のことなんて、本当はひとつもなかったのに。
(自分がバカで、嫌になる)
俺の背負うたくさんのペルソナは、きっといくつも顕在する俺の傲慢な心そのものだ。誰より高慢で無知だから持つことのできた、力──。
「先輩?」
ぱちん、と音がしてふいに部屋が明るくなった。
「なにしてンすか」
背後から完二の声がした。
「着替えたんなら降りて来いよ」
「──あ」
完二が気を遣ってわざわざうちまで来てくれたのに、すっかり忘れてぼうっとしていた。
(俺がバカだったことなんて、いま反芻する必要ないのに)
あとでやればいい。いまじゃなくていい。ひとりの時間なんてたくさんある。
(……完二が帰ったら)
また、どうせひとりになる。
「ごめん、いま行く」
慌てて振り返って言うと、廊下に立っている完二が眉を顰めた。
「先輩」
「うん、悪かっ……」
全部言い切らないうちに完二が部屋に入ってきて、俺の前まで来てしゃがんだ。
「? どうかし──わ!」
いきなり顎を掴まれて、袖でゴシゴシ顔を擦られた。
「痛、いてて、ちょっ……なに!」
「なに、じゃねえよ。バカ」
怒っているような困っているような、変な声でそう言いながら、親指でぐいぐい目許を押された。
「あのよ。泣くならもっと派手に泣けよ、わかりにくいから」
「……え?」
完二の指が離れたとたん、畳にぱたぱたっと水滴がこぼれ落ちた。
「あれ……?」
なんだかうまく意味が飲み込めなくてしばたたくと、また、畳が濡れた。しかも、いつの間にか目許が熱っぽくなっていて、おまけにまばたきする度にじんじんと沁みる。
「……なんだこれ」
自分でも目元を擦ってみたら、指先がぬるぬる生暖かいもので濡れた。辿っていくと頬がすっかりべとべとになっていて、そこで初めて自分の涙が落ちているのだと気づいた。
「変だな、なんで……なみだなんか」
我ながら吃驚して、内心うろたえながら独りごちた。
(泣くようなことはなにも起きてないのに)
動揺して視線を彷徨わせると、完二がこっちをじっと見ていることに気づいた。少し、困った顔をしていた。それはそうだろう。着替えに行ったやつが帰ってこないと思えば、ひとり暗がりでダラダラ泣いていた、なんて。出くわしてしまったら、なにごとかと思うに決まっている。
(こんなの、俺も困る)
けれど、気が焦れば焦るほど目から次々あふれてきて、擦っても擦っても止まらない。
「……先輩」
「うん、悪い。なんかちょっと……なんでもないんだけど、これ」
「いっスよ、別に……」
「いや、あんまりよくないし……ごめん、ホントになんでもない、……っんだけど」
途中でなぜだかしゃくりあげてしまって、言っていることとやっていることが逆さまで、ますます困る。
(なんでいうこときかないんだ……俺の身体のくせに)
頭に来たら、よけい畳が濡れた。もう、どうすればいいのか本当に全然わからない。
「センパイ……」
「いや、その、だから別に、──……っ」
後頭部を鷲づかみにされて引き寄せられ、いきおい俺の濡れた顔が、完二の肩口に埋まった。
「ちょ……完二、なに」
「いいンすよ、だから」
「いいって……なにが。俺は別になんでも」
「あんたがなんでもなくても、俺が平気じゃねえッスよ」
少し機嫌の悪そうな声で言って、完二は俺の腰を引き寄せながら、頭に置いた方の手でくしゃくしゃと乱暴に髪を掻き回した。
(うわ、なんだ……これ)
指はぞんざいに動くわりに抱きしめる腕は優しくて、まるで、小さい子供をあやすみたいな仕草だった。
(……慰められてるのか、ひょっとして)
意識したら、一気にものすごく恥ずかしくなった。
泣いているところを見られるだけでも困るのに、撫でて宥められるなんて。親もされたことがない。
「待て、ホントに……やめろって」
くすぐったくていたたまれなくて、思わずもがいた。なのに、完二の腕はぴくりでもない。特別力をこめているふうでもないのに、全然抜け出せなかった。
「完二、頼むから、それ勘弁……」
胸の辺りをぐいぐい何度も腕で突っぱねて、しばらくするとようやく腰に置かれた腕が緩んだ。少しホッとして見あげると、ものすごく近いところで完二と目が合った。
(──あ)
俺を見下ろす完二の目が、じんわりと赤かった。
それから、落ちてくる視線は俺の目よりも少し下にあって、だから、思わず、目を閉じた。
けれど、
「……飯」
俺の予想を裏切って、落ちてきたのは聞き漏らしそうなほどの小さな声だった。
「冷めっから、下」
独りごちるふうに言って、いきなり俺の手を掴み上げて立ち上がった。
「わっ、ちょ、痛……っ!」
突然すぎて、足許がふらついた。すると、こっちがくらんでいる隙に、完二が俺をひょいと背中に担ぎ上げた。
「うわっ、おい完二! なんだよ」
「……単なる親切ッス」
「なに言ってんだ、おまえ!」
「うるせえ。暴れっと階段から落とすぞ」
「なんだよそれ」
あんまりひどい言いぐさに絶句していると、完二は俺を背負ったまま廊下に出て階段を下り始めた。古い家の階段は暗くて狭くて、お互い図体が大きいからよけいに足許が覚束ない。なのに、スピードを緩める気配もないから、俺は仕方なく抵抗するのをやめて完二の首にしがみついた。下手に怒らせると本当に階段を真っ逆さまに転がされそうだ。
「つーかアンタ、なんか軽いンすけど。飯まともに食ってねえだろ」
「……食ってるよ」
「へー」
俺の話なんか聞く気はさらさらない相づちを打たれた。
「そのわりに冷蔵庫ン中、結構すごいことになってたッスけど」
「冷蔵庫……?」
なんのことかわからずに首を傾げると、大げさなため息が聞こえた。
「中にヤバいもんいっぱい入ってたから捨てた。どんだけ開けてねえんだよ」
「……あ」
そういえば、
(「冷蔵庫、ぎゅーぎゅーだよ!」)
買い置きをしていたかもしれない。
(こんなことになるなんて……思ってもみなかったから)
ひとりで食べる飯のために、わざわざ料理をしようと思うほどマメじゃない。
(たいてい外食か買い食いで適当に済ませて。だって──ずっとそうだったから)
堂島家へ来るまでは、それが当たり前だった。
(いつもどおりにしてただけで)
ひとりだったから、すっかり忘れていた。冷蔵庫のことなんて。
「……まあ、全滅はしてなかったッスよ。一応」
付け足すみたいに完二が呟いたのは、たぶん、俺が可哀想だと思ったからだ。
(なにやってるんだ、俺……)
哀れまれても仕方ない。ありとあらゆる簡単なことが、なにひとつできなくなってる。
(この家にいま、俺しかいないのに)
家のことどころか、自分のことすらままならない。しかも、ひとり暗がりで泣いていたりして。これじゃ、子供みたいに扱われても文句は言えない。
「下ろすッスよ」
声をかけられてふと我に返ると、廊下をとっくに通り抜けてダイニングテーブルの前だった。足で台所の椅子を引くと、完二は俺を座面へゆっくり下ろしてくれた。
「それ、腐ってねーから」
目の前のダイニングテーブルには、野菜と肉を炒めたらしいものが皿いっぱいに乗っていた。
「微妙にシナシナしてンのもあったけど、そんくらいで腹壊したりしねーから。んでいま味噌汁温めてるし、飯もそろそろ炊けっから。ホラ」
箸を目の前に突き出されたから、思わず受け取ってしまった。
完二はよし、と頷いてすぐさま俺に背中を向け、コンロに向き直り、鍋の前でおたまを掴んだ。大きい背中が丸く前屈みになって、狭い台所の隅っこに立っている。小さい台所が、いつもより二回りくらい小さく見えて、まるでおもちゃみたいに見えた。
(飯も作るのか……まあ、手先は器用だしな)
ふと、手前の皿からただよってくるごま油の匂いにそそられた。
「いただきます……」
味に興味もあったから、手を合わせてからひと口、食べてみた。
少し濃い目で大味だが、嫌な味はしない。
(野菜がしなびてるのは完二のせいじゃないし)
ひと口食べたらなんだか妙に腹が空いてきて、気づいたら立て続けに何度も箸を運んでいた。
(悪くない、かも。……暖かいし)
手料理の感想として真っ先に言うには、失礼かもしれないけれど。
「味、平気ッスか?」
味噌汁の椀を置いた完二がこちらを見て、聞いた。
「うん」
「なら、いいけどよ」
ホッとしたらしいのがわかって、なんだかおかしくて、つい笑いそうになるのを噛み殺した。
「味見しなかったのか」
「そうじゃねえよ。けど、家の味とかってあんだろ。アンタのクチに合うか合わねーかは別だろ?」
「うまいよ」
「ほら、飯。食えよ」
「うん」
頷きながら炊きたての飯が入った茶碗を受け取って、口に運ぶ。ほんのり甘い米の味がやけに美味くて、ひと言も口が利けなくなった。
ふと気づいたら、完二も俺の正面に座って、自分の作った飯をかっ込んでいた。
(なんか変だな)
完二の作った飯をこんな夜中に食っている。
堂島家で、ふたりきりで。
(……まあ、いいか)
お互いなにも言わずに、黙々と箸を動かした。
(中略)
「アンタ、なに笑ってンだよ」
いつの間にか俯いていた顔を上げると、完二が不機嫌そうにこちらを見ていた。
(……まただ。俺、全然関係ないこと考えてた)
いま一緒にいてくれる相手をそっちのけにして、自分のことばかりでいっぱいになっていた。
「ごめん。……俺、笑ってた? あ、着物が楽しみだなって話じゃなくて?」
「そうじゃねえ。……わかんねーなら、もういいッス」
完二は椅子の背にかけてあったジャケットを勢いよく羽織った。
「俺、帰るッス」
短くそう言って、完二は足早に玄関へ向かった。
「あ……悪い。こんな時間まで、いろいろさせて」
俺は、慌てて完二の背中を追いかけた。
「おばさんもきっと心配してる。俺、電話しとくから」
完二は返事もせずジャケットに手を突っ込んだまま、段差のある上がりがまちを降りてスニーカーをつっかけた。
「また明日な、完二」
何気なくそう言った。
そのとき。
ふいに完二が振り返って、俺を見て──すごくビックリした顔のあとに、なぜだかぎゅっと、顔が歪んだ。
俺もたぶん、変な顔をしていた。
驚いていて。
(俺……完二にいつから会ってなかったんだっけ)
完二の怒った顔が間近にあって、それが、吃驚するぐらい懐かしかった。
混ざり気がなくて潔くて、暗いところを射貫く光みたいな眼差し。
どこも変わっていない。会ったときから全然変わっていない。なのに、ちゃんと見たのがいつ以来か思い出せない。
(……いつから?)
一緒にいるようで、顔も合わせないような毎日を送っていた。
それどころか、いまも、さっきも、ずっと一緒にいたくせに。
(一ヶ月、……それよりずっと?)
まるで出会い頭に正面衝突したような衝撃が、胸の内側からドンと、心臓を叩いた。
(いったい俺は、いままでどこでなにしてたんだろう)
完二は、ずっと俺の隣を走っていてくれた。横道に逸れるたびに、俺を捜しに来てくれた。
──でも、俺は?
(いつから、完二を見失ってたんだろう)
傾いてくる完二を、ただ駆け引きを楽しむみたいに、見てた。
勝負事みたいに。
けれど負ける気なんて、全然なくて。
(バカは俺だ)
ひと目見て、すきだと思ったのは、自分の方だったのに。
手を離したくないと思ったのは、俺の方が先だったのに。
顔を見たら、泣けるほど。
「アンタ、何度言ったらわかンだよ」
間近で吐き出される完二の息が、白い。
「俺ぁバカなんだから、ハッキリ言えっつってんだろ。どうしたらいいかわかんねンだよ、これじゃあよ!」
完二が、俺の右手をまるごと包んで握りしめた。
思わず完二のジャケットの裾の、端っこを掴んだ俺の手を。
「またなって言いながら、なんでこうなるんだよ……わっかんねえよ!」
冷たくなった俺の手を。
「これじゃ、どっちなんだかうっかり間違えンだろ……!」
まるで、握り潰すみたいに。
「言えよ、言えばなんでもしてやっから……俺が! アンタのいいように、全部」
噛んで含めるみたいに。
まるで、小さな子供に言い聞かせるみたいに。
「口で言やあいいだろ……泣くほど寂しいなら、帰ンなって! まだ居ろって、言やあいいだろ……!」
「泣い、て」
ない、と言おうとして、失敗した。
まばたいたら視界がぼやけた。
「言いたいこと全部言えよ、途中で止めンなよ。んで、俺が出来ることだったら頭っから順番に全部叶えてやっから、こんなンなる前に俺のこと呼べよ。できねえから代わりにやってくれって言えよ。飯作って洗濯してゴミまとめて、あとなにすりゃいい?」
「なんで……そんなの、完二が」
「アンタが全然できてねえからだろうが、バカ!」
癇癪を起こしたみたいに完二が怒鳴った。
「でもって俺はそんくらいやりゃあできっから、やっただけだろ。そんなん、できる方がやりゃいいだろ。頼まれたって、できねえことはやれねえよ。けど、そのときやれることなら全部やるだろフツー。アンタだってそうだろ? カラダ張って、命かけて菜々子ちゃん助けたろ!」
「それは……でも、俺だけの力じゃ」
「アンタだよ! 先頭切って胸張って、なんもかんも引き受けて真っ正面から生田目ぶった切りに行ったのはアンタだ! アンタの背中がそこにあるから……一歩も引かねえ覚悟があるから、俺らも突っ込んでいけンだよ! いつだってそうだろ、いまさらなに言ってンだよ。アンタ、リーダーだろうが!」
「それは……俺に余分な力があるのは、俺が決めたことじゃない」
「アンタをリーダーって認めたのは俺らだ。ンなこたぁお世辞で決めたりしやしねえ、半端なヤツに命預けられっかよ。ペルソナが一個だろうが十個だろうが、リーダーはリーダーだ」
「俺は戦ってるとき、自分のことしか考えてない。別にみんなのことを思ってやってるんじゃない」
「だからなんだってんだよ。アンタの指示に従うって俺らが決めてンだ。アンタのやり方についてく。それは、アンタを信じてるからだ。俺らを悪ぃようにはしねえって。実際アンタがなに考えてようが関係ねえ、俺たちが生き残ってきたって結果があるからアンタがリーダーなんじゃねえか。それが、重いのか?」
完二の顔が少しだけ歪んだ。
「俺ら、アンタにおっつけてばっかで、重いモン背負わしちまってんのか? 苦しくて泣くほどやめたいンすか」
「そうじゃない、けど……」
「けど、なんスか。ハッキリ言えよ。全部聞くから。毎日堂島さん見舞って、菜々子ちゃん見舞って……アンタいつだって平気そうに笑ってるから、俺らだって間違えそうになンだよ。ひとりでこんな薄っ暗い家に帰ってること、すっかり忘れてよ。バカだろ……ホントに」
最後は、独り言めいていた。
「それは……完二のせいじゃないし、俺はなにか押し付けられたなんて思ってない。なるべく笑ってたいのは俺の我が儘で……他になにもできないから、そうしてるだけで」
「テメエの好きなヤツを助けてえと思う、大事なヤツを安心させてえって思う、そんなの、当たり前だろ! なにもできねえんじゃなくて、やれることやりてえってだけだろう! 俺だって、それっきゃねえよ。アンタの側にいる理由なんて、……アンタが好きだっつう以外になにがあんだよ!」
全部の息を吐き出し切るみたいに言って、ぜいぜいと、完二の肩が上下に揺れた。
「俺は言った。……アンタも言えよ。言ってくれよ。アンタがひと言でも言ってくれたら──俺はどこへだって行きゃしねえから」
完二の目許がうっすら赤く滲んでいるのが見えたけど、すぐによくわからなくなった。
「アンタ、前に言ったじゃねえか。──俺が言えっつってんだから、言えよ」
目の前がぼやけて、裏側から炙られてるみたいに熱くなって。
「俺も痛てえンだよ。テメーなんざクソの役にも立たねえクズだって言われてんのと一緒じゃねえか。それとも、俺じゃダメなのか……アンタに肩かしてやんのも無理なのか?」
完二の腕が俺の腰へ強く巻き付いてきた。上がりがまちの上にいる俺を必死で引き寄せる。まるで溺れて流されまいと高い木にしがみつくみたいに。
「俺じゃ、堂島さんや菜々子ちゃんに敵わねーことぐらい、わかってるつもりッスよ。そこ押しのけて一番にしろとは言わねえけど……俺だって、俺がここにいていいってアンタが言ってくんなきゃおっかねえンだよ」
「……なんで?」
薄い色の髪をそっと撫でてやると、俺の腹の辺りに顔を埋めていた完二があおのいて俺を睨んだ。
「そんなの……俺はアンタが一番なのに、アンタは俺が一番じゃねえからだよ」
真っ赤な顔をしてそう言うと、片腕を腰から解いて、俺の襟首をぐいっと掴んだ。
俺の背が、丸くたわむ。
呼気が冷え切った玄関の空気とぶつかって、お互いの間でいくつも、白く弾んだ。それからキスをする寸前の距離で、止まる。そのまましばらく睨み合った。
「……しないんだ?」
痺れを切らして、俺の方から聞いた。
「したいなら、すればいいのに」
「そうやっていつもいつも、ひとのせいにばっかすンなよ」
「言う暇もくれないくせに」
「俺がブチ切れるのわかっててアンタが煽ってンだろ。てか、時間あったってアンタ、どーせ言わねえし」
「じゃあ……したいから、くれよ。キス」
そう言って俺が鼻先を完二の鼻に擦りつけると、驚いたような気配のまま固まって返事がない。
「……言ったけど」
「けど、本気なのかよそれ」
「やめろって言ったらやめるのか」
「やめる」
即答された。
「アンタが本気で言うならやめる」
そう言って──ようやく俺の襟を引いた。
お互いのくちびるが、薄い皮一枚分だけ触れた。冷たい。けれど、わずかに口許から漏れる吐息ですぐにじんわりと温まってゆく。
外気は身を切るほど冷たいのに、触れたところだけがひどく熱い。全く逆の感覚が身体の真ん中でぶつかって、震えになった。内臓の奥が痙攣したみたいにぶるりとわななく。
「……ん」
震えがどうにも収まらず、立っているのがしんどくなってきて、俺は完二の背に腕を回しながらぐずぐずと廊下にしゃがみ込んだ。
高さが、逆になる。けれど、完二の手は緩まなかった。首筋をなで上げながら俺の顎を持ち上げると、今度は上からねじ込むみたいなキスが降ってくる。
(しょっぱい……)
ぐしゃぐしゃになった俺の目許から、涙が滑り混んできた。たぶん涙腺がすっかりもう壊れてしまっているから、だらしなくいくらでも水分が漏れてくる。
「はっ……ン」
息を次いだ隙間からするりと舌が割り込んできて、思わず喉から大きめの声が漏れた。
「ふ……ぁ、……っ!」
ふいに上顎の裏側をなぞられて、皮膚の上にわっと震えが広がった。
(こんなとこ……気持ちいいんだ、俺)
知らない場所を暴かれて驚きながら、もっとして欲しくて、俺も自分からくちびるを押し付けようと顎を反らせた。俺も自分の舌を完二の口腔へ差し出し、夢中で擦りつけた。
「う、……ぅん」
剥き出しの粘膜を幾度も行ったり来たりする舌先に、くすぐったいようなじれったいような感触が膨れあがって、思わず身をよじった。けれど、上から落ちてくる深いキスはやまない。食らいつくみたいに何度もくちづけられるうちに、飲み下し損ねた唾液が重なった辺りから漏れて、俺の首筋をとろとろと伝ってゆく。その気配すらどこか甘くて、身体が疼いた。
(キス、こんなにうまかったっけ?)
よく思い出せない。考えても考えても、途中でぬめる感触に全部浚われてしまう。くちゅくちゅと水気を多く含んだ音が耳朶に沁みてきて、頭がのぼせたみたいにぼうっとしてくる。そうして夢中になって応えているうちに、シャツの合わせ目からひやりとした指が忍び込んできて、胸の尖りに触れた。
「…………ッあ」
ひくんと喉を反らすと、俺の髪を強く掴んで、完二がいっそう深くくちづけた。小さな粒は執拗に転がされるうちにどんどん腫れぼったくなり、熱を持って張り詰め、つまめるほどに立ち上がってゆくのが見なくてもわかる。そろそろと乳首を撫でていた指も次第に大胆になってゆき、ふいに爪を立てたりするから声を抑えるのがいっそう難しくなった。
「ア、……っあ」
「いいから、早く、ダメって……やめろって言えよ、先輩」
訳のわからないことを言う掠れた声がしたから、瞑っていた目をこじ開けた。
完二が苦しげに眉根を顰めているのがわかって、俺は少し身体を引いた。腕を伸ばしてやんわり髪をすいてやると、完二は迷うみたいに視線をさまよわせた。
「こんなの……アンタが弱って凹んでるトコにつけ込んでるみてえで。そういうつもりじゃねーけど……でも、そうかもしんねーし。……俺も、わかんねえ」
言い方が不器用なほど正直で、思わず少し笑ってしまった。
「ンだよ、ひとが真剣に考えてンのに笑うなよ」
「俺が凹んでて弱ってるから、完二がなぐさめてくれる、じゃダメなんだ?」
「なんか……反則っぽいじゃねえか」
「なんで? 完二が俺としたいんだったら全然問題ないと思うけど。俺は会ったときから好きなんだし」
なんの気なしに言ったら、急に完二が耳まで赤くして身体を引いた。
「なんでそんなにビックリするんだ、そこで……」
あんまりあからさまだったから、俺までどっと恥ずかしくなった。
「すきだって、俺の方が先に言ったろ。まさか忘れてないよな?」
「あ、あんなの……かっ、からかってただけじゃねーか! あからさまに!」
「うん、まあ、おもしろくて可愛かったから」
「かわ──」
完二が絶句した。だけど俺も勢いを殺さないように、間髪入れずに言った。
「しよう。もういいから……もっといっぱい泣きたい」
そう言って、俺は完二のてのひらを取ってくちづけた。
「おまえの手があちこち触るの、俺、すきだよ。気持ちよくて」
切れ切れに言いながら指を一本ずつしゃぶりながら、完二を見た。
「もっとテンパって、わけわかんなくなりたい。……して?」
すごくわざとらしく言ったつもりだったのに、完二は耳の先まで真っ赤になった。言わなきゃよかった。これじゃ俺の方が恥ずかしい。
「……できること全部するってさっき言ったくせに」
恨みがましく言って睨みつけると、完二の視線が困ったように彷徨った。
「だ、から……、そういうのはやだっつってんだよ……」
「俺が弱ってるときは相手にしたくないんだ」
「たりめーだろ」
「ひどいこと簡単に言うな。……俺が、してほしいのに」
ちゅ、と音を立てて指を吸うと、完二の腕がびくりと跳ねた。
「回りくどい理由つけて四の五の言うのもいい加減めんどくさい。何度も言うけど俺は花村とかクラス長にちゅーしないし、家族だったらキスくらいできると思うけど、間違ってもセックスなんかしない。こう言ってもまだ足りない?」
きっぱり言って、俺は目の前にあった完二のベルトに手をかけた。
「センパ……」
ジッパーを下ろすと、下着はもうすっかり膨らんでいた。
「誘うばっかりじゃなくて、ちゃんと俺から先に手を出したら文句ない?」
布の上からやんわり手のひらで押さえると、脈打っているのが伝わってくる。
「だったらこれ触るけど、いい?」
声に出して言うのは俺だってそれなりに勇気がいったのに、いくら待っても完二は返事をしない。癪に障ったから、勝手に下着を押し下げた。
赤く充血して半勃ちになったものへ指を絡めると、ぎくりと完二の身体が揺れた。湿り気を帯びた屹立から、つんと覚えのある匂いがする。
(でかい)
この間触ったから薄々わかっていたけれど、あのときはこんなにまじまじと見なかった。
(するってなったら挿れるんだろうけど……こんなの、挿るのか?)
あんまりくどくど考えていると怯みそうだったから、やめた。
俺は目を瞑って完二の先端に軽くくちづけると、滲んだ水気を軽く啜った。
「ちょ……せんぱ……ッ」
それだけで完二の屹立は頭をもたげて、筋が浮き立つ。
「…………っ」
完二の口許から、熱っぽい吐息が微かに漏れたのがわかった。
「ふ……ンン」
男のそれを咥える日が来るとはさすがに思ってもみなかったけれど、特に不快感はなかった。それどころか、完二を直に震えさせているかと思うと、自分の鳩尾まで熱くなる。
(変態っぽいけど……なんか、ハマりそう)
どうせするなら、と思い切って真ん中辺りまで口に含んで、頬の裏側で擦った。軽く往復させると、生ぬるいお互いの肉がぬちゅぬちゅと音を立てる。徐々に硬さを増していくのがわかった。同じ男だから、どこをどうしたら気持ちいいかはいっそ女よりわかりやすい。
ときおり下から見上げると、完二が歯を食いしばっているのが見えて──疼いた。
(我慢しないで、ぶっ飛んでさっさと訳わかんなくなれ)
立ち止まったりしなくていい。そんなの、完二らしくない。
(なにも考えないでいいから、走ってこいよ。いつもみたいに)
本当にいてほしいとき完二はちゃんと隣に来てくれて、叱ってくれたから、俺もこれ以上怖がるのはやめにする。
(おまえがああして俺のことを信じてくれるなら、俺も……少しは自分が信じられそうだから)
目頭がまた熱くなって、勝手に水がひと筋こぼれた。
(俺の背中なんか、いつでもくれてやる。だから、おまえのど真ん中を、俺に寄こせ)
くびれを食みながら輪にした指を上から下へ動かすと、ぬるっとしたものが完二の先端から溢れ出して俺の舌を汚し、苦み走る。いつの間にか喉の奥をつくほど口内で固くなったそれを、俺は必死でしゃぶった。我に返るとさすがに怯みそうだから、目をぎゅっとつむった。
(どこが一番いいか、知りたい)
(続きは本誌で!)