うたごえ

 悲しみは、白でできている。
 それはまるで雪のように折り重なって、ひとたび降り始めると、後から後から降り続く。
 純白を花びらのようにして、汚れを隠すように重ねられ。
 その白さをこらえながら、やがてみずからの手には負えなくなってしまったかのように、それは激しく、胸に降り続ける。

:::

 低い音と小刻みな振動を背中に感じて、アキラは自分が目覚めたとわかった。
(夢……)
 起きあがり、背中を丸めるほど前のめりにうつむく。ジャケットのポケットから腕時計を引っ張り出すと、まだ真夜中を指し示していた。周囲にも複数の寝息がひしめいている。人いきれと、絶えずに繰り返す震えとで、眠りが浅かったのだろう。
 夢を、みてしまった。
 アキラは静かに立ち上がって、重い鉄の扉を押し開けた。とたん、むせかえるような潮の香りが押し寄せてくる。
 狭い階段を上り、外へ出ると、今度は漆黒に塗りつぶされた空と瞬く星に取り巻かれた。それからやや遅れて、波の打ち寄せる音。
 アキラが船の上の住人となってから、二日が経過していた。
 とはいえ、小型の貨物船に荷物同然の扱いで押し込められて、目的地へ搬送されているだけのことだ。その代わり運賃は格安だし、乗船記録なんてものはつけないから、旅の足跡が残りにくい。となれば、自然とスネに傷を持つ者ばかりが集まることになる。人数に反して、妙にひっそりとした旅路なのはそのせいだ。
 甲板の手すりに肘を預け、アキラは黒々としたうねりをぼうっと見つめた。
 辺りは、打ち寄せては砕ける波の音と、船から発せられる低いモーター音でいっぱいだった。これなら小さく呟く声くらい、それがたとえ自分の声であっても簡単に掻き消してくれるだろう。
 そう思い、息を大きく吸い込んだ。

 ──うみは ひろいな、おおきいな つきはのぼるし ひはしずむ──

 続きはどうだったかど忘れしてしまい、はたと口ごもる。
(確か、海に船を浮かべて……)
 ああ、そうだ。
「行ってみたいな、よその……」
 だが思わずそこまで口ずさんでから、それ以上、歌えなくなってしまった。

 ──なあ、一緒にうたを──
 ──絶対に勝って、帰ろうな──
 ──この際CFCじゃなくて、全然違う土地へ行くのも──
 ──アキラと、一緒なら。俺──

 なんで今さら、あんな夢なんか見てしまったんだろう。
 両腕につっぷそうとし、しかしアキラはふと背後に人の気配を感じて振り返った。
「! ……なんだ」
 男が立っていた。
「吃驚した。声、かけろよ」
 五年も生活を共にしているというのに、そのかすかな気配には今でも吃驚する。
 アキラ自身が染めてやった黒い髪は漆黒の闇に解けて、病的なまでに白い肌はいっそう際だち、薄く光を帯びているようにも見えた。
「アンタも、眠れないのか?」
 聞いても答えない。ただ、不思議そうな顔をしていた。
「どうしたんだよ」
 アキラが笑って首を傾げると、男の方から近づいてきて頬をなでた。
 ぴり、と皮膚をちいさく刺すような刺激が、指の触れた跡を遅れてついてゆく。頬から顎へ、そして喉元を何度かなでさする。くすぐったいような、少し痛いような感触──けれども、その手の行き交う仕草があんまり優しくて心地良いから、少し伸び上がってわざと首筋を晒し、男の好きにさせた。
「久しぶりだよな、船に乗るの。最後に乗ったのって、三年くらい前だったか? 五年前にニホンを出たときと、確かその後に何度か……」
 そう言ってアキラがそっと男の胸に体を預けると、やがて柔らかく肩を引き寄せられる。
「あの頃の俺は、船なんて初めてで……そうそう。足下が揺れると落ち着かないって言ったら、アンタにすごい不思議そうな顔をされたっけ」
 男はどんなところでも眠ることができ、すぐに目を覚ますことができた。ほんの一瞬の眠りで、疲労を回復することもできるらしい。そういうふうに訓練され、育てられたのだという。
 人の気配がすれば、瞬時に必ず目を覚ます。そんな男を痛ましく思う傍ら、しかし自分の前では易々と眠りに落ちることを知ってからは、少し不謹慎だと思っても嬉くなる気持ちを止められない。
 今も男の穏やかな表情に──それが自分だけ向けられると知っているから──思わず口元が緩んでしまいそうになる。
「あのとき、どうしてこんなでっかい鉄が浮かぶんだって言ったら、説明してくれたよな。ちっともわかんなかったけど」
「アキラ……」
「ん?」
「眠れないのか」
「……眠ることはできるんだけど、細かく目が覚める。眠りが浅いんだろうな」
「そうか」
「久しぶりに……夢を見た」
「夢、か」
「そう。トシマにいた頃の……みんなで騒いで、歌を歌って、馬鹿な話をたくさんした。そのときのことを、そっくりそのまま。あのときはみんな酔っぱらってたんだ、確か。そう、中立パブの……Meal of Dutyの奥にカラオケがあって」
「からおけ」
「どっかの古いビルから拾ってきたんだって言ってたな。番号を押すと、歌の伴奏が流れる機械だよ」
「うた……」
「その日はパブがわりと空いてたから、使ってもいいことになって……オッサンがいい気分で音痴な演歌歌って、リンは呆れてた。あいつはうまかったな。ジャカジャカしたうるさい歌を歌ってたけど。…………」
 軽く話し始めれば口の端に乗せられると思ったのに、やはりそこから先はうまく言えない。けれど、話してしまいたかった。一人で抱えていると、いつか窒息してしまいそうで。
 大きく静かに、アキラは深呼吸した。
「……ケイスケは……、カラオケに入ってる曲はわからないって言って……けど、歌えってリンに怒られて、結局伴奏なしで童謡をいくつか歌って……。俺にも歌えだなんて、冗談じゃないって……俺は、あのとき歌わなかった」
 男が、肩を抱く手のひらをもう一度握りなおしてくる。そんな、なにげない仕草に意味などないのに、少し鼻先がつんとした。
「ごめん。……少し神経質になってるのかもしれない」
「ニホンに行くのは、やめにするか?」
「いや、そうじゃないんだ。そういう意味じゃなくて……帰りたいって言い出したのは俺なのに、変なことを言って本当にごめん。大丈夫」
 そう言って腕の中から離れようとしたが、力が入っている様子もないのにちっともほどけない。見上げると、薄い青の瞳がぴたりとこちらを見つめていた。
「……なに?」
「見ようと思わなくても見えるもの、見ようと努力しても見えないもの……」
「ああ……夢のことだっけ。そういえば昔、そんなことを言われたな」
 本当にそのとおりだ。夢はいつだって、こちらの気持ちなどお構いなしに、気まぐれな足取りで向こう側からやってくる。
 最初の一年は、見ようと思っても見えないことに焦っていた。次の一年は、時折見ようとも思わなくなっている自分に苛立って、さらに月日が過ぎれば見ることが怖くなった。今もそうだ。見たくなかった。
 今になってあのはにかんだ笑顔や、遠慮がちに笑った声、意外と上手だった歌のことなんか、思い出したくなかった。
「アンタに聞かれたときは全然わからなかった。考えてもみなかった、……って方が正しいかな。それに、昔は夢なんて、見てもすぐに忘れられた……」
 自分の声音が自嘲気味に響いて、なんだかものすごく後ろめたくなる。
 今こうして片時も離れずに、暖かさを与えてくれる腕があるというのに。
 ──それはとても、酷い。
「許してやるといい」
 ふいに静かな声で割り込まれ、アキラは首を傾げた。
「もういい。許してやるといい」
「え? なにを。……っ」
 いきなり、きつく抱きしめられた。
 息をつくのも苦しいほど、両の腕にかき抱かれる。全身が粟立ち、皮膚の浅いところがすべて剥がれて落ちそうな錯覚を起こした。
「どう、したんだよ……放せ、って──ぁ」
 男の唇が首筋をかすめ、耳たぶをやんわりと噛んだ。甘い愛撫にアキラは思わず身震いする。
「俺が、おまえを許している」
 再び首筋に口づけてから、男はアキラの髪に軽く頬をすり寄せてくる。
 それは男の、慰撫の仕草だとわかった。
「眠るといい。揺れても平気だ。それから、夢を見ても」
「違う、……違うんだ。ごめん……俺」
「眠れ」
 そんなふうに優しく言わないでほしい──そう言いたかったけれど、男の有無を言わせない静かな声に、全部喉元で詰まってしまった。
 この驚くほど聡くて優しい男の隣に寄り添いながら、隠しておけることなんて何一つない。
 暴かれるのではない。北風よりも太陽が人を裸にするように、触れられると自分からこの男に向かってほどけ、溶けてゆく。
 そうわかっているから、きっとどこかで甘えている。慰撫されることを心の隅で願って、おまえは悪くないと言わせて、男を傷つけているかもしれない。
(怒ってくれたらいい……)
 いつまでもたった一人の男が忘れられないことを、忘れられないと俯くことをなじってくれたらいいのに。
 男が抱いた片方の手を放し、代わりにアキラのまぶたへ大きな手のひらを添え、覆った。
 その手が思ったよりも、ずっと暖かかったから。
 ほんの少しだけ、涙が出た。

:::

 奇妙な音が聞こえた。
(音……声か?)
 まどろみに身を任せながら、アキラは聞くとはなしに耳を澄ませる。
 昨日は、男の腕の中で再び眠ってしまったらしい。あやすように触れられ、熱を交わしているうちにぼうっとなってきたところまでしか覚えていなかった。
(不思議だな……)
 たったそれだけのことなのに、夜にささくれていた気持ちは嘘みたいに軽くなっている。
 相変わらず、辺りにはモーターの重低音が絶えず響いていた。だが一緒に聞こえてくる、その珍妙で不規則な音がなんなのか、よくわからない。
 もぞもぞと寝返りを打つと、体に柔らかいものがかけられているのに気づく。男の上着だと、すぐにわかった。いい匂いがした。
(どこかへ行ったのか……)
 アキラは胸元に、男の上着をたぐり寄せる。
 船に乗ってからというもの、朝になると男は一人寝床を這いだし、舳先へ行ってじっと海原を見つめるのが日課だった。今頃は鳥と戯れているかもしれない。
 そうしてつらつらと考える間も、不思議な音はまだ続いていた。お世辞にも、気持ちのいい音の配列をしていない。何だろう。聞いても聞いても、何の音なのかよくわからない。
 いや、……今、なんとなく、聞いたことのある音が混ざった気がする。
 フレーズ──ひょっとしたら、声。
(う……は、いな。お……きい──)
「え!?」
 アキラは思わず声を上げて跳ね起きた。
 いきなり目を開けたから、膨大な光が飛び込んできて目の前が真っ白になる。しかし、目を擦ってむりやりこじあけた。
「……アキラ」
 男が、すぐそこにいた。瞳を細めてこちらを見ていた。
 抜けるような青色の空と、光の砕ける蒼海を背にし、男の白い肌と紫の瞳はまるで光そのもののようにまぶしく見えた。黒く染めた髪が風にすくい取られて舞いあがる。薄い金色だった頃もこの世のものでないように感じたが、黒い髪は男の白い肌をより際だたせ、蠱惑的に見せていた。
 その絵画のような立ち姿にアキラは言葉を失い、息をすることも忘れて男を見つめた。
「また、夢を見たのか」
 形の良い唇がゆるりと動くのを見守ってしまい、自分が問われたと気づいたのは一拍おいてからだった。
「え? いや……見てない」
 慌ててアキラが首を振ると、そうか、と口の中で小さく呟いた。
「あの、その……今の、アンタか?」
「…………?」
「ひょっとして今、歌ってた……?」
 アキラが言うと、男の眉根が微かに寄せられる。
「違うのか……?」
 男は答えない。だが。

 ──うみは ひろいな おおきいな──

 そう聞こえなくもない。
 しかし、今のが本当に歌ならば、”音痴”などという領域からはゆうに頭二つくらい飛び出している。
「なあ、それ……俺が昨日の夜、歌ったやつじゃないのか?」
「……そうだ」
 ややあって、男がようやく答えた。ほんの小さな表情だったけれど、明らかに男が憮然としているのがわかって、アキラは思わず笑いそうになる。
「もう一度聴きたい。歌えよ」
 そう言うと、男はしばらく黙りこくってから、けれどもたどたどしく、おかしな音程で音を紡ぎ始めた。

 ──う、み……は、ひろーい、な おおーき……い、なぁ──

 明らかに、調子が外れている。
「歌ったこと、ないのか」
 どことなく緊張した面持ちで、男は黙って頷いた。
「聞いたことも?」
 もう一つ、頷いた。
 顎に右手を当て、ややうつむく男の目はかなり真剣だ。どうしても堪えきれなくなって、アキラはくすくすと忍び笑いを漏らした。それから、空いた男の左手をそっとすくい上げて、甲へ鈍く残った十字の傷にそっと口づけをしてやる。
「じゃあ、今度は俺と一緒に歌おうか」
 男は軽く首を振る。
「どうして」
「俺はアキラの歌が聴きたい」
「俺だってアンタのが聴きたいのに」
 男が困った顔をしたから、ついまた笑ってしまう。
「……おかしいか」
「いや、俺は好きだけど」
 するりと言ってしまってから、アキラは自分の言葉に吃驚して、男の手のひらを取り落としそうになる。
 すると、アキラの手のひらを追いかけて握りしめ、わずかに眦を細めて、男が言った。
「俺もだ。……好きだ」
 そう言って、指の先にキスをくれた。

:::

 つたない歌が、胸に暖かく優しく降り積もっていく。
 喜びもまた、白い色をしている。
 誰もが信じる白い色をしている。
 苦い色を溶かしながら。
 悲しい色を含みながら。
 汚れた色を包みながら。
 降り積もっていく。
(ああ、ほんとうだな)
 そうして他人に与えれば与えるほど、しあわせは増えてゆく。
 世界は、そうやってできている。

 そう信じて、俺たちはずっと一緒に生きていく。