ラチチュード

 とつん、と家屋の片隅を叩く音が聞こえ、和臣は漫然とつけっぱなしにしていたテレビをリモコンスイッチで切り、立ちあがった。
 カーテンをめくると、黄色い電気に照らされて、窓ガラスが一面ちかちかと光る。
「雨か」
 それほど強くないようだが、今日は朝から降ったり止んだりしている。
 稲羽の気候なのだろうか。それとも今年はどこもそうなのか。晴れた日がどうも続かずに、すぐぐずつく。春先から、抜けるような青空をほとんど見ない。明日も雨のようだ。
 雨の夜は落ち着かない。濡れそぼつ気配に佇む闇は、暗がりをさらにさやかな音でくるんで覆い隠してしまう。だから、なにかが起きても不思議じゃないという気がする。
(何かって、なにが)
 思わず、自分自身に苦笑した。
 テレビの中、ペルソナ、シャドウ。謎の連続誘拐殺人事件、たちこめる原因不明の濃い霧、マヨナカテレビ──。
 これ以上、どんな劇的なことがあるだろう。
「洗い物でもするか」
 わざと声に出して言い、カーテンを引いた。
 コンビニ飯のプラ容器を軽く水洗いしていると、とんとん、と階段から足音がした。振りかえると、
「おにいちゃん」
 目を擦りながら菜々子が顔を覗かせ、和臣を呼んだ。
「菜々ちゃん、どうした? 宿題終わったの?」
 こくり、と菜々子が頷いた。
「終わった。だから菜々子もお皿洗いする」
 そう言いながらしばたたく目元はいかにも眠そうで、和臣は思わず苦笑した。
「いいよ、もう終わりだから」
「でも……ぶんたんするって約束した」菜々子はそう言ってから、つま先の辺りを見つめた。「それにお父さん、まだ帰ってこないし」
 和臣はちらりと時計を見る。
 ──二十二時。
(これは最近お定まりの、アレかな)
 だとしたら、帰りはまだ少し先だろう。
 和臣はしゃがみこみ、菜々子に視線を合わせて頭をそっと撫でた。
「今日はもう遅いし、菜々ちゃんはおやすみ。お父さん帰ってくるまで起きてたらきっと怒られるよ」
「けど、お父さん……今日電話ない」
「きっと忙しくてかけられないだけだよ。俺が起きてるから大丈夫」
 そう言って額へ額をこつん、と当てると、菜々子は小さく頷いた。
「うん……」
「で、相談なんだけど。明日の皿洗いは菜々ちゃんにやってもらってもいい?」
 菜々子は大きくまばたいてから、ぱっと笑った。
「うん、する!」
「よし、じゃあそうしよう」
「約束ね」
 差し出された小さな小指を、和臣は自分の小指に引っかけた。
「ん、約束。おやすみ」
「おやすみなさーい」
 嬉しそうな顔をして、菜々子は再び階段を上っていった。その小さな背中を見送ってから、和臣は残りの洗い物を済ませ、朝ご飯の簡単な準備をして、再び時計を見あげる。
(……電話してみてもいいけど)
 たぶん、予想通りならまともに出ない気がする。だいたい相手は子供じゃないのだし、それほど心配する必要もないはずだ。そう思った時だった。
 いきなり乱暴な音を立てて、玄関の扉が開いた。
「うぉーい、俺が帰ったぞー……ひっく」
 やっぱり、と思いながらため息まじりに立ちあがって玄関先へ出ると、上がりがまちにだらしなく乗り上げ、いまにも靴を履いたまま這い上がって来そうな男がひとり、転がっていた。
「遼太郎さん、おかえり」
「なんだあ? 和臣。おまえ、このやろお!」
 そんなことを言われても、困る。
 どうも話にならない気配がしたので、隣にいる叔父の部下を労うことにした。
「足立さん、毎回どうもお疲れ様です。あとは俺が運びます」
「ほんと? いやー和臣くん。悪いねー」
 そう言う足立の顔も真っ赤だ。
「上がって休んでいきます?」
「いやいやいや、これくらいだいじょーぶ、だいじょーぶ!」
 こちらも、負けず劣らず出来上がっている。
「じゃ、一杯だけ水持ってきますから、ちょっと待っててください」
 和臣は台所へとって返すと、グラスに水を注いで氷を入れ、ついでに脱衣所からタオルを引っ張り出して玄関に戻った。
「どうぞ」
 足立は一気に、差しだした水を飲み干した。
「かー! 五臓六腑に染み渡るぅー! 和臣くん、きみね、きっといいお嫁さんになるよ」
 嫁になってどうする、という反論は胸にしまって、和臣は肩が半分ずぶ濡れの足立をタオルで拭ってやりながら別のことを聞いた。
「捜査、大変ですか」
「まぁねぇ。ていうか、ぶっちゃけ捜査はともかく、例の探偵くんがねえ……」
「探偵って、直斗くん? まだそれ引っ張ってるんですか?」
 足立が大げさに顔をしかめた。
「引っ張りまくりだよ。彼、思ってたより現場での影響力が強くてさ。ここだけの話、堂島さん、やりづらいもんだから毎日機嫌悪いのなんの……」
「足立ィ!」
 唐突に遼太郎が吼え、足立は文字通り飛び上がった。
「うおっと! いっけね。んじゃ、僕はこれで」
 足立は逃げるように、そそくさと玄関から転がるように出ていく。
「足立さん、気をつけて」
 声をかけると、足立は手を上げつつ「じゃーねじゃーねー」と陽気に言いながら暗がりへと消えていった。
(転ばなきゃいいけど)
 雨は止んでいるようだ。だが田舎の夜道は、都会に住んでいると想像もつかないほど暗い。しかも畦道だの用排水路だの、足を滑らせると危ない場所がたくさんある。
(足立さんも大変だな)
 彼も外から稲羽へやってきたクチだ。土地柄や仕事に馴染むだけでも大変だろうに、気むずかしい上司に始終つきっきり、おまけに飲んだくれるところまで律儀に付き合って、挙げ句文句を言いながらも家まで送り届けてくれる。
 欲目かもしれないが、遼太郎の普段の人柄がそうさせるのだろう。
「ン……ごっ」
 ……たぶん。
(ま、このひとの場合、これくらいは愛嬌かな)
 実直を絵に描いたような男だと思っていたけれど、やりきれない気持ちを酒で紛らわすなんて人並みなこともするのだな、と思うと、だらしなさを窘めるより先につい笑ってしまう。
「……遼太郎さん、遼太郎さん」
「ぅい……ひっく、ンだあ? 和臣、子供は寝る時間だろぉが」
「なに言ってんだか。寝た方がいいのはそっちだよ」
「るせぇ」
 くだを巻く酔っぱらいになにを言っても無駄だ。
「ほら、足上げて」
 ぐだぐだになった遼太郎の靴を脱がせ、腕を改めて担ぎ直し、和臣は廊下を経て狭い階段を上った。お互い小柄ではないから、足許もろくに見えない。それでも、遼太郎の部屋は階段の一番手前にあるから助かった。
 どうにか転ばずに部屋まで辿り着くと、薄暗い室内の真ん中には布団が敷いてあった。これ幸いと遼太郎を遠慮なく転がす。朝から敷きっぱなしだったのだろう。
 布団に転がっている酔っぱらいを見下ろし、しんとした室内で和臣はほっと息をついた。
(菜々ちゃんが寝ててよかった)
 これでは父親の威厳も保ちづらいだろう。
(ま、せいぜいフォローしましょう)
 それがたぶん、堂島家における自分の正しいポジションだろう。遼太郎と菜々子、ふたりは決して仲が悪いわけではないけれど、うまく間を橋渡しをする人間がこの家には欠けている。
 きっとそれは、母親のようなものだろう。最近はそんなことを真剣に考える。
(俺の家だって、両親いないも同然の放任主義なんだけど)
 ふと両親の顔を思い出そうとし、すでに輪郭があやふやなことに和臣は思わず苦笑した。理想の父親、母親がどんな生き物なのか、想像の域を出ない。けれど、どうせ一年限りだ。家族ごっこを真剣にやってみるのも、悪くない気がしていた。
「なあ遼太郎さん、服、脱ぎなよ。シワになる」
 大きくゆすったが返事がない。
(しょうがないな)
 布団で大の字に転がる遼太郎にまたがって、シャツのボタンを全部外し、はだけさせた。
 無駄のない、引き締まった身体があらわになる。案外着やせするタイプなのかもしれない。特別に鍛えているわけでもないだろうに、骨と、そこにまつわる筋肉はとても力強くて、しばらく見入った。密で隙のない、完成された男の身体だ。自分も同年代を相手に決して見劣りしないが、肉の付き方が全然違う。
「腕、抜くよ」
 聞いてはいないだろうと思いつつも一応断って、和臣はシャツの袖口から遼太郎の腕を引き抜き始めた。これが、相当難儀した。大の男の腕は太く、おまけに脱力しているからたいそう重い。苦労してあちこち引っ張ったり腕を曲げさせたりしたが、しかし遼太郎は一向に起きる気配がない。泥酔とはまさにこのことだ。
 なんとか片腕を袖から引き抜いたあと、遼太郎の身体を布団の上で転がして、Yシャツを無理やりはぎ取った。シャツはやんわり湿っていた。肌に直接触れると、アルコールでほてった身体は赤みを帯びて薄く汗ばんでいる。
 とりあえずシャツで軽く拭ってから、少しばかり悩んだあと、和臣はスラックスのベルトに手を掛けた。シャツは洗い立ての替えを渡せばいいけれど、スラックスはそれほど数がない。部下もいるいい年頃の男が、しわくちゃのスラックスで出勤するのはどうかと思う。
「遼太郎さん」
 もう一度声を掛けた。聞いているのかいないのか、微かに身を捩る。が、しばらく待ってもそれ以上の反応はなかった。
(しょうがない、こっちもやるか)
 この暖かい季節だ。汗さえきちんと拭っておけば、上半身素っ裸にパンツ一丁でも風邪を引いたりはしないだろう。
 ベルトの金具を解き、ボタンを外し、ジッパーを下げた。そのままずり下げようと引っ張ったがうまくいかず、案の定もたついた。大人の男ひとりを、自分ひとりの力で簡単にどうこうしようというのは、少々無理があった。ぐいぐいと力ずくでスラックスの淵を引っ張っているうちに、自分まで汗ばんでくる。
(少し腰、浮かせてくれたらいいんだけど……起きないし)
 半ばうんざりしながらもう一度、力をこめて布地を引きよせた。そこで、
「う……ン」
 いきなり遼太郎の掠れた声がし、驚いて和臣は手を止めた。
「……遼太郎さん?」
 恐る恐る声をかけたが、やはり返事はない。
(なんだ、いまの)
 うわずって掠れた、甘い声。
 聞いたことのない種類の声音に、和臣は息を顰め、しばらくじっと遼太郎を見つめ下ろし──気づいた。
(ひょっとして)
 そうっと遼太郎の下肢に触れた。
 スラックスと一緒に、中途半端にずり落ちた下着をわずかにずらすと、中のものがふるりと飛び出た。
(うわ……)
 和臣は思わず、まじまじとそれを見つめた。
 下着から中途半端に覗いた遼太郎の性器は、立ちあがってはいないものの、ほんのり充血して見える。アルコールのせいだろうか。それにいま、弾みで触ってしまったかも。
(デカいな)
 そっと、指で触れてみた。
「…………」
 遼太郎の口から、ため息に似た熱い片息が漏れた。
(へえ……酔って寝てても気持ちいいのか)
 妙に感心して、さらに緩く円を描くように揉んだ。
「ぅ……ん」
 遼太郎の低くて錆びた声は、なぜか内臓の奥にじんわり甘く沁みた。好奇心と、わずかに後ろ暗い興奮が混ざり、自然と呼吸が上がりそうになるのを和臣は慎重に整えた。
 何度か擦り上げると竿はどんどん固くなっていき、やがて亀頭からじんわりとねばつくものが垂れてきた。粘液がまとわりつくと和臣の指はより滑らかに、リズミカルになり、そのぶん手の中のものは硬さを増してゆく。刺激を与えれば与えただけ反応を返すのが面白く、寝ぼけているとどれくらい気づかないものかと興味も手伝い、和臣は何度も遼太郎のものをこねまわした。すると、
「う」
 いきなり、遼太郎が短くて強い声を上げた。
 さすがに驚いて手を止め、遼太郎の様子を見ようとした。
 が、できなかった。
「ちょ……待っ、遼た」
 後ろから後頭部をぐい、と強く掴まれ、引き寄せられた。いきおい、和臣は素肌がむき出しになった遼太郎の胸板へ、頬を押し付ける格好になる。おまけに
「……千里」
 知らない名が耳に飛び込んできた。
 いとおしげに呼ぶ、声。
(だれだ?)
 たぶん、女の名前だ。だが知らない。聞いたことがない。でもきっと、大切な。
(別に、いいけど)
 昔の女かもしれないし、いま付き合っている女かもしれないし、キャバクラの女かもしれない。とにかく遼太郎がいくら堅物でも女性関係のひとつくらいあって然るべき、大の大人だ。だいたい細君が亡くなって何年も経つのだから、相手が誰だろうが自由だろう。この際どうでもかまわない。それに、所詮酔っぱらいの寝言だ。
 そんなことより、この体勢をどうするべきなのか。
 いま自分は、図らずも遼太郎の太い腕の中にきつく、すっぽり収まっている。おまけに、太ももの辺りに遼太郎の固い、熱い感触があった。
 脈打つ太竿と、つんとする汗の匂いが、すき間なく張り付いている。
(……俺までつられて勃ちそう)
 当たり前だが、同性の性的興奮をこれほど直に感じたことはない。ああ、誰もみんなこんなものかというおかしな安堵と、悪ふざけの後始末をどうしようかという冷静な気持ちが複雑に絡み合い、和臣は動悸が速まる胸の裡で真剣に考え込んだ。
 もがいて叩き起こすか。それとも、さしたる実害はなさそうだからこのまま放っておくか。だが、自分の始末をどうするか。
 和臣自身は、不思議とこのおかしな体勢に嫌悪は感じていなかった。しかし、この瞬間に誰か飛び込んできたら、尋常ならざる光景に仰け反るだろうと容易に想像がつく。それよりなにより、遼太郎がいきなり正気に戻ったら、腰を抜かすに違いない。
(それも面白いか)
 慌てふためく遼太郎を想像して、こっそりと笑んだ。そこへふいと遼太郎の大きな手のひらが動き、後頭部を掴む指を緩めてゆっくりと和臣を撫で始めた。
(ホントに、誰と勘違いしてるんだか)
 和臣は再び笑いを噛み殺し、髪を絡めて慈しむような動きをいっそ堪能しようと目を瞑って、遼太郎の好きにさせた。
 無骨な太い指に似合わない、甘やかで優しげな手つきだ。いつもこんなふうに女を抱くのだろうか。きっとこの男に惚れられたら大切にしてもらえるだろうな、とぼんやり思った。平素愛想のないこの男がこんなふうに穏やかに触れ、ついでにひと言ふた言の睦言でも呟こうものなら、じんとくるのじゃないかという気がする。いかにも子連れの男寡だが、決して見た目は悪くないし、うまくやればモテそうなものだ。けれど、恋愛や再婚をするには遼太郎に時間も心の余裕もないのだろう。
 つらつら考え事をするうち、遼太郎の指はやがて和臣の首筋を通り、耳に触れ、頬を掠め──まるで顔の形を確かめるように動いたあと、いきなり和臣の顎をぐいと押し上げた。
(え?)
 またたく間に、遼太郎のくちびると自分のくちびるが、重なった。
「………………っ」
 ──これはキスだ。たぶん。
 さすがに驚いて、和臣は目を見開いたまま息を呑んだ。


(続きは本誌で)