赤い颱風

 いつも、忘れたふりをしているだけだ。
 本当は、よく覚えている。
 力を手にした瞬間感じた、腹の底から喉元へ突き上げるような──快感を。

「そっち、頼む!」
 花村が叫ぶより早く、大塚は動いていた。敵はあと一体──手負いのシャドウ。
 ジライヤの生み出した逆巻く風に切り裂かれ、ぐずぐずと半身を床に崩しながらも、シャドウは口を裂けんばかりに開けて肉薄してくる。声になりきらない暴風に似た咆哮が心臓を直に、容赦なく叩く。
 けれど、もう慣れた。
 倒せる。
 手首を返すと、かちりと手許で刃が鳴る。腕を振り上げるシャドウよりも早く、一歩大きく懐に踏み込んだ。渾身の力で刀を水平に薙ぐと、人の胴体よりも太い腕が引きちぎれて宙を舞った。
 シャドウが再び、嘶える。
 死──消滅に瀕して上げる声はただの本能か。それとも恐怖、あるいは怒りだろうか。
 ぼんやり頭の隅でそんなことを考えながら、目の高さで手のひらを閃かせた。
 ちり、と焦げつく気配の後、現れたのはまばゆい一枚のカードだ。勢いよく握りつぶすと、光が、砕ける。
「ペルソナ!」
 青い炎が背骨を焼き、吹き上がる。現れる、イザナギ。間髪入れず、稲妻がシャドウを天から地へと貫くと、打たれたシャドウは目の前からかき消えた。
「さっすが大塚!」
 花村が弾む声を上げて、駆け寄ってくる。
「やっぱ頼りになるぜ、相棒」
「怪我はない? 大塚くん」
 気遣わしげな天城の声に「大丈夫」と軽く頷いた。痛むところはなかった。
「すげッスね、先輩」
 完二が心底感心したように言うと、花村が自信満々に完二を小突いた。
「だから言ったろ? こいつスゲーって。打ってよし、守ってよし。おまけに出せるペルソナもひとつじゃない、いくつも自由自在に操れるってんだから参るよな」
「あんたが威張るなよ」
「うっせ。いーだろ、俺の相棒なんだから」
「なんだそりゃ。……にしても、俺なんかにゃぜってーできねえな。ペルソナ一体でも大変だってのに、いくつも使えなんて言われた日にゃ、頭がこんがらがっておかしくなっちまうぜ」
「ま、特訓の甲斐あって完二も無事自分のペルソナ使えるようになってきたことだし、そろそろ帰るか。りせちーのことはスゲー心配だけど、肝心の俺らが参ったらどうしようもねーし。初日のダンジョンにしては、ここまで来られりゃ上出来だろ」
「うぃーッス」
「うん。きっと千枝も今ごろ待ちきれなくて足踏みしてるよ」
「里中来たがってたからなー」
 久慈川りせがテレビに囚われた。早々に救出作戦、というところまでは全員意見が一致したが、誰が中へ入るかなかなか決まらずに散々揉め、結局じゃんけんで決めた。
「けど入り口がら空きにして、もしシャドウに帰り道塞がれたりしたら、俺ら帰れなくなっちまうもんな。クマだけじゃどーも頼りねーしさ」
「花村くんてば、そんなこと言ったらクマくんが怒るよ」
「んじゃま、里中が頼もしすぎるってことで。よし、戻ろーぜ」
 花村と天城が連れ立って歩き出す。
「ん? 先輩、大塚先輩」
 ふたりの後について歩き出した完二が、ふいと立ち止まって振り返った。
「どしたンすか」
「……え」
 とっさに意味がわからなくてまばたくと、完二がいぶかしげな顔をした。
「え、じゃねえよ。なに突っ立ってんだ。帰ろうぜ」
「──ああ、そっか。そうだな。ごめん」
 帰ろうぜ。
(……そうだ、帰らないと)
 のぼせたみたいに、身体の芯が熱い。ぼうっとしていた。
「ガス欠ッスか?」
「いや、大丈夫。元気」
 小さく笑って、歩き出す。
「それより完二、今日の感想は?」
 完二は口端を上げて力こぶを作って見せた。
「なんつうかこう、すかーっとするッスよ。次からはもっとぶっ倒してやる! 先輩らにばっか、いいかっこさせられねえ」
「頼もしいな。じゃあ完二が一人前になったら、俺は隠居してクマと留守番してよう」
「なにジジむさいこと言ってンすか。その……」
 急に言葉を濁したから、ちらりと見あげた。するとあらぬ方を見あげて、完二はほんの少し照れくさそうに「スゲ、かっこよかったッスよ」と呟いた。
「その、やっぱ、さすがみんなからリーダーって言われるだけのことあるっていうか……ずっとついて行こうって気にさせられるっつうか」
「おおっと!」前を歩いていた花村が急に振り返って、大仰に仰け反った。「それってやっぱあれか? 男子専──」
「うっせえ! その話すんなっ!!」
 いきなり、完二が花村のケツを蹴り上げた。
「痛っ! おまっ、暴力振るうな! 大体あんま本気で反論されっと余計こえーだろ!!」
「知るかクソ! 蹴るぞこの野郎!!」
「もう蹴ってんだろ!!」
「ふたりとも、あんまり騒いでるとまたシャドウが出てきちゃうよ」
「ドンと来いやぁ!」
「バカっ、ホントに出たらどーすんだ! 最初に飛ばしすぎてもうとっくにカスカスのくせして!」
「カスだと!? 俺に向かってカスたぁいい度胸じゃねえか、表出ろ!」
「だからっ、さっきから表に出ようっつってんだろうが!」
「その辺で止めとけよ、ふたりとも」
「けど先輩!」
「別にいいだろ、男子専用でも」
「ンなこたぁわかって──……は?」
 完二が口をあんぐり開けて首を傾げた。
 間近で高い悲鳴が上がったのは、そのときだった。

「きゃあっ!」
 いきなり天城が床へ倒れ伏した。
「天城っ! ──っう、ぁ!」
 続けて隣にいた花村が叫び、間髪入れずに向かいの壁まではじき飛ばされ、衝撃で苦無を取り落とした。
「!? 花村先輩ッ! 天城先輩ッ!」
 突然のことに驚きつつ、完二は叫んでふたりに駆け寄ろうとしたが、しかしぎょっとして思わず立ち止まった。
 ゆらりと廊下の角から影が立ちあがった。
「シャドウ……!」
 ──不意打ち。
 死角にいて、全く見えなかった。
 辛うじて立っている花村の前へ大塚が滑り出ると、庇うように立ち、剣を構えた。動く影を捉えたのか、シャドウは大塚に向けて手にした槍を振りかざした。
「先輩らになにしやがるッ、この馬公!」
 とっさに叫んで、前へ飛び出した。
「バカ! 無理すんな完二!」
 花村の叫び声がしたが、振りかえる余裕も、止まる余裕も、どちらもなかった。いましも大塚を蹴散らさんばかりに襲いかかる長槍を食い止めるため、命じる。
「ペルソナァ!」
 腹に力を入れ、眉間に強く意識を集中すると、長方形のカードが揺らめきながら現れる。まばゆいそれを手にした鉄板で粉砕し、完二は唯一無二である相棒の名を叫んだ。
「来いっ、タケミカヅチ!」
 古い神話の荒ぶる雷神──けれども、そんなことは後から聞いた。ただ名が頭に浮かんで、誰に教えられたわけでもないのにそう呼ぶべきだと識った。なぜだかは、いまも分からない。
 主の声に応え、完二の背後へ重く黒い気配が屹立する。
「蹴散らせ!」
 タケミカヅチが腕を振りかざし、手にした黄金の武器を振りかざす。
 辺りをつんざく雷鳴──そしてホワイトアウト。手応えは、あった。しかし、闇を順えた騎士擬きを止めるほどの威力はなかった。
 古びた造りの槍が、間髪入れずに突き出された。瞬間的に、無理だ、と頭の隅で思った。この距離では避けられない。
 とたん黒い旋風が首筋を掠めて肩の骨に突き当たり、ガン、と熱が弾けた。あまりの激痛に声も出ず、完二は磨き込まれた床を滑って転げた。
「…………っ!」
「完二!」
 誰か、自分の名を呼ばわって駆けつける足音がした。目前で戦う気配がある。なのに、起き上がれない。
(怠けてンじゃねえぞ、俺……ッ!)
 歯を食いしばり、やっとのことで頭をもちあげた。だが視点が定まらず、揺れる。目を凝らしても、ものがうまく見えない。
(クソッ、あの野郎、どこ行きやがった……ッ!)
 初めて足を踏み入れたダンジョンの廊下は照明の色が強く、影も濃くて、目がチカチカする。必死にかぶりを振り、もう一度力をこめて正面を睨み据えようとしたとき、
「大塚、も、よせ……っ!」苦虫を噛んだような花村の声がした。「それ以上、深追いすんな……ッ」
 何度かまばたくと、廊下の向こうへ消えようとする黒い影が見えた。それから、白いワイシャツの背中も。
「先輩ッ! 大塚先輩!」
 大塚らしき背中は振り向きもせず、シャドウの後を追ってゆく。
「クソっ、あのバカ……」
 花村ががくんと床へへたり込んだ。
「なに熱くなってんだ、……わざわざ追っかけなくたっていいっつうの……っ!」
「俺が行くッス!」なんとか、鉄板にすがりつきつつ立ちあがる。「先輩ら、あとから来いよ!」
 重い足を叱咤しつつ、完二は曲がりくねった廊下をひた走った。
 肺が役立たずだ。いくら吸っても充分な空気が入ってこない。喉元で木枯らしのような音がひっきりなしに鳴っている。
(花村先輩の言うとおりだぜ。向こうが逃げたンなら放っておきゃいいってのによ!)
 いくら不意のこととは言え、対峙するにはこちらが明らかに力不足だ。そこを、なにを思ったか相手の方が先に退いたのだから、この隙に外へ出るべきだろう。
 自分もついカッとなる方だし、負かされるのは面白くないし、逃げるのは嫌いだけれど、それくらいの判断はできる。
 いまの状況は「ボロ負け」だ。
(「なに熱くなってんだ」)
 ──だが、そうなのだろうか?
(わっけわかんねえ)
 平素、大塚和臣という男は、熱血漢では決してないと思う。かと言って、冷ややかなタチでもない。鷹揚で、朗らかだが煩くはなく、そつないし、押しつけがましいところもなく、感情にブレもなく──けれどなぜだかその場にいるだけでひとの目を惹く。周りに纏わる空気が、周りの誰ともどこか違った。
(「すっごいよねえ、転校してきて即学年一位だもん。やっぱ都会は違うってこと?」)
 先日そうぼやいていたのは里中だ。
 花村も「都会から来た高校生」という垢抜けた雰囲気なのだが、彼はまた違う。「都会の匂いがする」という言い方が一番近いだろうか。
 「都会」そのものの持つイメージそのもの。
 こぎれいで、泰然としていて、来る者を拒まず、誰でも受け入れるけれど──少し、得体の知れないかんじ。
(……なんでだ?)
 ふいとそんなことを思った自分に、完二は首をひねった。
 非の打ち所がない優等生。彼に対する評価と言えばこのひと言に尽きる。なのに、自分はどうしてそんなふうに思うのだろう。
「ペルソナ!」
 勁い声が、急に鼓膜へ切り込んできた。
 角を曲がって、突き当たりだ。分厚いビロードのカーテンがかすかに揺れている。
「先輩っ!」
 大きなひだが邪魔で、力任せになぎ払った。
 とたん、どっと前から圧力が押し寄せてくる。
(でけえ)
 完二は思わず息を呑んだ。部屋が狭いせいか、それとも距離が縮まったせいか、対峙するシャドウは先ほどよりもずっと大きく、まるで黒い山のように見えた。その分、手前に立つ大塚の背中がいかにも小さく見えて、思わず背筋が震えた。
 騎士を気取った出で立ちの影を乗せ、大きな馬影は竿立ちになって大塚へのしかかる。
「危ねえッ!」
 完二は力の限り叫んだ。しかし、大塚の動きはそれよりも速かった。無言で進み出ると、冴えた剣花が辺りに散る。追突してくる相手の力を刀で受け留めて流し、大塚は何とか踏みとどまった。
 だが間髪入れず、今度は自分たちの身の丈よりもずっと長い槍が唸りを上げ、大塚の頭上目がけて振り下ろされた。シャドウは声など発していないのに、まるで猛獣が哮るように空気が震えた。
 思わず足が竦みそうになるのを叱咤し、完二は歯を食いしばって踏み出す。
(畜生、やらせねえ!)
 しばらくふたりで凌ぐことができれば、きっと後から花村と天城が駆けつけてくれるはずだ。
 彼の背中を守ればいい。ただ、それだけ。
 自分にはいま、その力がある。仲間に助けられ、自らと向き合って手に入れた。
 いま必要なのは、自分を信じる気持ちだけだ。
 ──できる、絶対に!
「うぉおおおお!」
 吼えながら、完二は敵の正面から突進し、馬の鼻っ面を力の限りひっぱたいた。
 巨体は煩わしげに長い首を振るい、わずかに傾ぐ。しかし、致命傷になるような力はもちろんない。すぐさま体勢を立て直し、頭を巡らせた。
「先輩、加勢するッス!」
 舌打ちしつつ叫び、完二は大塚の隣に滑り込んだ。
 しかし、彼はこちらを見向きもせず、ただ突っ立ったまま動かない。取り乱すふうでもなく、さりとて怯むふうでもなく、ただ目の前の敵をぼんやりと見据えている。
「オ、オイ! 先輩っ!」
 すると聞いているのかいないのか、大塚はレンズの向こうでわずかに目蓋を細めた。
 まるで、何か見えないものへ狙いを定めるように宙を見据える。ややあってから形のいい指がつい、と滑るように差し出された。
(──あ)
 整った長い指先を伝い、まばゆい一枚のカードが目頭の辺りに滲み出た。ほの蒼い鱗粉を纏う蝶が、鮮やかに舞う。
 そして静かに、力強く、名を呼んだ。
「ペルソナ──イザナギ」
 刹那、カードが手のひらの中で粉々に砕ける。
 その姿を間近で見た完二は、目を見開き、面食らって呆けた。
(マジかよ)
 こんなときに。
 やるか、やられるかというときに。
(笑って、やがる)
 この男は勝つ気だ。
 完二が瞠目している間に、大塚は額の辺りで光の塊を握りつぶす。青い炎が、彼の背骨を舐めるように這い上がり、吹き上がった。火影の隙間から立ち上るのは諸元の神・イザナギ。白のたすきをはためかせ、その異形は身の丈ほどもある剣を勢いつけて振るう。間髪入れず、シャドウを刺し貫き、幾度もなぎ払った。
(すげえ)
 まだ自分のことに手一杯で、必死で、いつも隣にいたのに──初めて余すところなく、つぶさに見た。特訓に付き合って貰ったときとは訳が違う。
 鋭利で迷いのない、舞いのような太刀さばき。
(負けるわけねえ)
 根拠もなく、そう思わせるに足る。
 我知らず鳥肌が立った。
 やがて数限りなく繰り出される容赦のないイザナギの剣に、くらりと巨大な馬が大きく傾ぎ、バランスを欠いた。
「行くぞ」
 ぽつんと言って、大塚が動いた。
 自分に向けられた声だとわかるまでひと息遅れた。が、この声は知っている。いつも隣から聞こえる声だ。
 背筋が伸び、あとは勝手に身体が動いた。
「っしゃあ!」
 すぐさま叫んで、完二は大塚と並んで前へ飛び出した。
 動けなくなって床でもがくシャドウへしゃにむに攻撃をしかけると、やがて黒い馬影はひれ伏すように二つに折れる。
「──さっさと消えちまえッ!」
 まさに死ぬ気で吐き出したその語勢を理解したか、シャドウはほどなく気化するように、消えた。

 壁を背にし、完二はその場にずるずるとしゃがみ込んだ。
 急にどっと身体が重くなり、胸の裏から叩かれるような動悸が喉元に迫り上がってきてひどい目眩がする。
「あー……クソッ」
 こめかみからひっきりなしに、さざ波に似た血流の音が聞こえる。わずらわしくてサングラスをむしり取り、かぶりを振った。
(みっともねえ)
 まだ、慣れない。自分のペルソナが頭から降ってくるようなことはなくなったし、ある程度戦闘で使い物になるようにはなったけれど、終わった、という安心感が押し寄せると糸が切れたようにくたびれる。一戦一戦を全力でやり過ぎているのはわかっているが、力の抜きどころがよくわからないのだ。
「大丈夫か」
 頭の上から声が落ちてきて、あおのくと、大塚が覗き込んでいるのがぼんやり見えた。
「……ういッス」
「危ないところ、ありがとうな。助かった」
 ウソだろう、と思ったが、口にするのは止めて別のことを聞いた。
「ンで、わざわざ追っかけたりしたんスか」
 すると大塚は少し考えこんでから、
「つい」苦笑した声で言った。「なんか、カッとなって」
「らしくねッスよ。ンな、通り魔みてーな」
「そうか?」
「そッスよ」
「まあ、いいだろ。……それより、それ」
 大塚の手が首筋に伸びてきた。
「ッ、イッテエ!」
 さっきシャドウに槍で突かれたところを触れられ、痛みが急に戻って来た。戦うのに必死で、痛いどころの騒ぎではなかったのだ。
「治そうか」
「や、……も、いっス。先輩だって疲れてンだろーし。こんくらい舐めときゃ治るッスから」
「ふぅん」
 大塚がわずかに目を細めた。
(──あ)
 軽い、デジャヴ。
 どこかで見た顔だ、と頭の隅で思い、どこだったかと記憶の糸をつらつら手繰った。
 それがまずかった。
 大塚の背がこちらへ傾いできたことに、全然気づかなかった。
「イ──」
 とたん、ひり、と首筋に火が点いた。
 それが、屈み込んだ大塚が自分の首筋に唇を這わせたせいだと気づくまで、ずいぶん時間が掛かった。生暖かいものが首筋から付け根まで行き来し、歯が傷口をかすめた痛みだったと気づくには、さらに時を要した。
「な……イテ、イテテッ、ちょっオマ……ああ!?」
 完二は弾けたように叫んだが、我ながら呆れるくらい要領を得ない、うろたえた声だった。すると大塚は喉の奥で含み笑って、
「だって自分じゃ舐めるの無理だろう、こんなとこ」
 囁くように言い、ちゅ、と音を立てて首筋に口づけた。
「ば、バカッちげッ、そりゃ言葉の綾つぅヤツだろうが、──……ッ!」
 じゅる、と皮膚を吸い上げる湿った音が耳の近くで弾け、あまりの驚愕で殴ろうと思ったのにできなかった。
 しかも、あろうことか、腰の近くがずきりと甘く疼いた。
(まっ……待て、俺、そいつはさすがに──ありえねえだろ!?)
 自慢じゃないが、頭は悪い。だが、これが何かわからないふりができるほど幼くはない。
(けど、ちが……俺は、ホモじゃねえ!)
 泡を食って愕然としている完二を置き去りにし、大塚の湿った舌先はなおも優しく首筋を撫で回した。妙に丁寧な仕草からわき出る熱と痛みと、理性が板挟みになって、ひときわひどい目眩がする。息が細かく零れる。力を入れていないとおかしなことを口走ってしまいそうな気がして思わず歯を食いしばり、つられて目蓋もぎゅっと閉じた。
「コトバノアヤなんて、難しい言葉知ってるんだな」
 吐息がこそばゆい距離で声がして、完二は目を見開いた。
(コイツ)
 口端が笑む形をしていた。
「かわいい」
 からかわれている。確実に。そうとしか思えない。
 そういう冗談は、大嫌いだ。
「ンのやろ……ッ!」
 頭に来て、渾身の力で大塚を払い退けると襟首を掴み上げ、床へ突き倒した。
「わ……っ、おい完二」
「るせぇ!」
 しゃにむに押さえつけて馬乗りになり、殴ってやろうと腕を振り上げたが、しかし敷き込んだ身体はしゃくに障ることに、もがきもせずじっとしている。自分はといえば、みっともないくらいに息が上がっていた。
 襟首を掴み腕を上げたまま、余裕綽々の相手を歯噛みしながら睨み据えると、正面からかちりと視線がかみ合った。サングラスは外したままだったが、近すぎて、はっきりと見えた。
 重そうな前髪の間から覗く強い瞳が、完二を見つめ返している。照明のせいか、それとも眼鏡のレンズのせいか、深い色の瞳は表面がうっすらと青味を帯びて見えた。そこへ時折、濃褐色の長い睫毛がゆっくりとまばたいて揺れる。
 口許は──まだ笑っていた。
 出口を求めてさまよう怒りから来る目眩と、近い過去から舞い降りてくる既視感。
 その笑みは、先ほどシャドウに向けたものと同じだ。
 負かされるのは面白くないし、逃げるのは嫌いだ。
 そしてたぶん、こいつも同じだ。勝つ気でいる。
「どうしたい? 完二」
 ささやくように抑えた声が自分の名を呼んだ瞬間、その微かなさざめきは、完二の朦朧とした頭の芯に火をつけた。
 完二は背中を突き飛ばされたように屈み込み、衝突同然に大塚へ自分のくちびるを押し付けた。

(続きは本誌で)