クロニック・ラブ10

 明け方、廊下に慌てた調子の靴音が響いて、アキラは一晩中まんじりともせずうずくまっていた体を跳ね上げた。
「ケイスケ……!」
 叫んで飛び出したが、しかしそこにあったのはケイスケの姿ではなく中年の女性──アパートの大家だった。
「あんたに電話がかかってきてるよ。急ぎだって」
「急ぎ……」
 なにか思うより先に悪寒が背筋を滑り、心臓の近くを撫でられて、ぎくりとする。
 明け方にもたらされる急ぎの電話、警察、死んだ男、血まみれのナイフ、──いなくなったケイスケ。
(ダメだ……)
 ひとりでどんどん勝手な想像にかられて、胸が潰れそうになる。だが、答えはアキラの予想しない角度から飛び込んできた。
「源泉って人からだよ」
「オッサン……?」

 ケイスケのことばかり考えていたから、源泉と言われてもとっさになんのことだかわからなかった。こんなに早い時間に源泉が一体、何の用だろう。
「あんた、顔色悪いよ。大丈夫?」
 言葉を見失い、別に、と曖昧な口調で相づちを打つと、ただならぬ状況と思ったらしい。とにかく電話を取りなさい、と急かすように言われ、アキラは諾々と従った。
 うまく頭でものが考えられなくなっていたから、人に従う方が楽だった。それに、工場長と古いつきあいだという大家は夕飯をおすそわけしてくれたり、電話を貸してくれたりと、日頃からなにかれとなく自分たちの世話を焼いてくれる人物だ。任せておけば心配ない気がした。
 急に体中に張り詰めていた力が抜けた。胸で暴れていた焦燥が引いて、すっと静かになっていく。
「なにかあったの?」
「いえ……」
「いつも言ってるけど、なにかあったらいつでも言いなさいよ。面倒なことになる前にね。いいね」
「……はい」
 気遣われている──それがわかった。
 おそらく大家は、親切心だけで言っているのではない。店子に面倒を起こされては困るという思いがあるのだ。だが、うるさいだとか放っておいてほしいだとか、そういう反発心はひとくさりもわいてこない。それどころか、ささやかな言葉ひとつでこんなにも気持ちが落ち着いたことが自分でも不思議だった。
 大家の家は、アパートから少し離れたところにある一軒家だ。すみません、と言って家にあがりこみ、アキラは指し示された電話の受話器を持ち上げた。
 もしもし、と言って出ると、受話器から馴染んだ男の声がした。
『アキラ、すまんな。こんな時間に──』
「オッサン……」
 思わずアキラはその場にしゃがみこんだ。なんだか訳がわからないまま、どっと重くなる体だけが知覚できた。自分の口からこぼれ出た声が憔悴していて、なんだか変だと頭の隅でぼんやり思う。そして、それきり言葉が出なくなってしまったから、電話の向こうで源泉の声がひどく慌てた。
『おい、電話かわれ。今からすぐ行くからそこで待ってろ』
 きつく言われた。気を取り直して立ち上がり、大家に受話器を渡すと、彼女は電話の向こうにいる源泉となにか慌てたようにしゃべりはじめた。
 すぐ行く、と言った源泉は本当に時間を置かずにやってきた。どこから来たのだろうと思うほど早く感じたが、自分の体内時計がおかしくなっていたせいかもしれない。大家へていねいに礼を言い──朝早くからすみませんだとか、どうもご面倒をおかけしてだとか──笑う姿が見たこともない顔をしていたから不思議だった。
「おい、アキラ」
「オッサン……」
「ったく、しょうがねえな。ほら、行くぞ」
「……オッサンは何の用なんだ」
「お迎えにきてやったオイチャンにその言いぐさか、ん?」
 人好きのするいつもの笑顔で言われ、詰めていた息がほっとほどけた。吐き出す息と一緒に何かわめきたい気分が喉を突き上げて、アキラは慌てて息を飲み込んだ。
「いいから来い。車で来たからな。おまえは座ってりゃあいい」
「だから、……なんで」
「心配すんな、ケイスケは無事だ」
 無事、という単語の意味を捕まえ損ねて、ケイスケ、という言葉にだけずきりと心臓が痛んだ。
「そんな顔すんな。ちっとばかりケガをしちゃいるが、手当も済んでる。俺の家にいるから大丈夫だ。行くぞ」
 苦笑したように肩を叩かれ、外へ連れ出された頃には朝日が辺りの屋根を照らし始めていた。

:::

 アキラは黙りこくったまま、源泉の運転する車の後部座席に背を預けた。
 エンジンの音と振動だけが車の中を支配していた。明らかに頭の中が混乱していて、なにを言えばいいのかさっぱりわからない。だが源泉もそれをとがめたり、しつこく事情を問いただしてきたりはしなかった。
 心地良いくらいの生ぬるい沈黙と車の細かな振動に身を任せて、このままでは眠りこんでしまうのではないかと思ったが、意外と意識ははっきりしていた。さっき電話を取ったときよりも、よほど冷静な気がする。
 だからと言って、なにか具体的なことを考えられるわけでもない。アキラは、ただ流れていく窓の景色へと視線を移した。
(この車……どうしたんだろう)
 源泉が運転してきたのは大きめのバンだった。ゴチャゴチャと機材らしきものが積んである。
 だが源泉は、海外から帰国したばかりのはずだ。彼の所持品とは思えない。どこかから借りてきたものだろう。こんな朝早くから車を貸してくれる知人がいるのか、とアキラは妙なところに感心した。
 さっきの電話もそうだ。大家の電話番号を源泉に渡した覚えはない。どうやって調べ上げたのだろう。工場に電話をしたのかもしれないが、こんな朝早くに一体誰が対応してくれたのだろうか。
 ふいにアキラは、今日は寮に泊まって行けとしつこいほど勧めてくれた同僚たちの顔を思い出した。あのときはケイスケが家に戻ってくるかもしれないから、とろくに顔も見ずに断ってしまったが、気を悪くしてはいないだろうか。いきなり、心配になった。
(人が自分をどう思おうと関係ない──のに)
 いつもは気にも止めないことが、ぽつりぽつりと胸に落ちてくる。考え事ができないくらい神経が摩耗しているはずなのに、浮いたり沈んだりする思考でいつの間にか体じゅうがいっぱいになっていた。
 だから、着いたぞ、と源泉に声をかけられるまで、アキラは車が止まったことにも気づかなかった。
「どうした。車、ひとりで降りられるか」
 度を超した子供扱いぶりにはさすがにむっとして、アキラはなにも言わずシートから腰を浮かせた。源泉が苦笑したような気配がしたから、ますます憮然とする。
「こっちだ、アキラ」
 笑ったまま手招きする源泉についていくと、連れて行かれたのは殺風景なビルの一室だった。
「ここ……おっさんの家なのか」
「まあな。散らかってるが、あんまり気にするなよ」
 そう言って開け放たれた扉の向こうからは、ひんやりと仮住まいのにおいがしていた。
 散らかっていると言うわりには、思ったよりものが少ないせいだろうか。それとも、愛想のないコンクリートの壁がいけないのだろうか。とにかく温度がない。
 アキラは、これとよく似た部屋を知っていた。間取りはずっと狭いけれど、自分が一人で暮らしていたCFCのアパートにそっくりだった。
 源泉はここに長居するつもりがないのだ、と思った。たとえ簡素でも、暮らしやすいようにとひと握りの心配りをした部屋は、こんなふうに色味を失ったりしない。
「アキラ」
 ぼんやり立ちつくしていると、いつのまにか奥の部屋へ引っ込んだ源泉が名を呼ばわった。
「座ってろ。ソファはまともに座れるだろう。これでもさっき、ざっと片付けたんだ。食い物食い物……と、水の方が先か。途中で仕入れてくるんだったな」
 他にすることも思いつかなかったので、とりあえずは言われたとおり、ソファへ身を沈めてみる。だが、少しは気持ちが落ち着いたせいか、あれこれと細かく世話を焼かれるばかりの状況にアキラは居心地の悪さを覚えた。
 がさがさと荷を探る音がし、やがて源泉はソリドと牛乳のパックを手にして戻ってきた。
「こんなもんしかないが、ちっとくらいは腹の足しになるだろう。あとで調達してきてやるからな。おまえさんは、それを食い終えたらいったん寝ろ。そいつの背を倒すとベッドになる」
「別に、腹も減ってないし、眠くないからいい……それより」
「いいかアキラ」アキラの言葉をさえぎって、源泉は続けた。「人間はな、口から取り入れたものでできてんだぞ。しっかり食って飲んでなけりゃ、まともに動くわけがないんだ。そういうふうにできてる」
「けど、ケイスケ、は」
 普通に聞くつもりだったのに、声が喉につっかえた。
「隣の部屋で寝てる」
 源泉が扉のひとつを顎でしゃくって、眦からふと力を抜いた。目許が和むと、驚くほど優しい顔になった。
「ちいとばかり強めの睡眠薬を盛ったからな、とうぶん起きない。起きたら真っ先に教えてやる。面倒なことはぜーんぶオイチャンが何とかしてやるから、おまえもとにかく休め」
「でも」
「だったら、おまえも同じ薬飲むか」
「嫌だ」
 きっぱりと言うと、源泉が苦笑した。
「だろう? だったら素直に寝てくれ。これ以上、オイチャンをビックリさせないでくれよ。頼むからもう勘弁してくれ」
 なにを言っているのかよく分からずに首を傾げると、源泉が大きなため息をついた。
「どでかい馬に蹴られた気分だ。……よけいなことをして本当にすまなかった」
「オッサン……?」
「こんな大騒ぎになるなんざ、正直思ってなかった。おまえさんたちが仲良くやっててくれりゃいいって、それだけだったんだが……」
 いたわるように、頭を軽く撫でられた。一見がさつな手つきは、ただただ暖かい感じがした。人からそんなふうにされるのは初めてで、アキラは困惑ぎみに源泉を見上げた。
「……オイ、そんな顔をしないでくれ。情けなくなるだろ」
「オッサンがなんでそんなふうにするのか、よくわからない」
「わからないことはないだろう。その、俺がよけいなお節介をしたせいで、おまえとケイスケがこじれちまって」
「それはまあ……でも、もらったものをどうするかは俺の責任で、その後のことだって俺たちが何とかすることだから、オッサンがどうしてここまでしないといけないのか……やっぱりわからない」
「ったく、おまえらは……」
 バサバサと乱暴に自分の髪をかいて、源泉が吐き出した。
「ちっとは頼れよ。困ってんだろう。俺の立つ瀬がねえだろうが」
「なんで……」
「俺はまだ信用がないのかもしれんが……いや、違うな。おまえさん、本気でよくわからねえって顔してる」
「だから、わからないって言ってる」
 やれやれ、と源泉が大きく肩をすくめる。
「手伝わせろと言ったろう。ケイスケはいつからあんなだ」
「あんなって……なにが」
 言いよどむと、源泉の眼差しが一段と真剣みを帯びた。
「なあ、アキラ。俺はなーんも悪いようにしない。頼むからきちんと話しておいてくれ。でないと、俺はケイスケにうっかり頭をかち割られるかもしれん」
「オッサンに……ケイスケが何かしたのか」
「ちいとばかり危なかったな。おかげで、窓ガラスを変えなきゃならん」
 割れた窓ガラスを指さされ──初めて気づいた。床一面に細かなガラスの破片が飛び散っている。部屋の端に寄せてあるガラクタも、よく見てみると割れたテーブルだとしれた。
 血が足下へ向かって、一気に流れ落ちた。
「オッサン、あいつどこにいるんだ……! ダメだ、放っておいたらあいつは……」
「落ち着け。さっきも言っただろう、隣の部屋で寝てる。大丈夫だ。ホラ、いいから座れ」
 腰を浮かせたアキラの肩を強く押さえつけ、源泉はアキラをソファへと押し戻した。
「……まあ、俺が言ったこともよくなかったんだろう。見たところ、ずいぶん意識がふらついてたが、今までも何度かあったんじゃないのか」
 正面から源泉にまっすぐに見つめられて、もうどこにも逃げようがなかった。
「……本当にすごくおかしかったのは一度だけだ。ときどき……うなされて飛び起きたり、夜になんとなくおかしい感じがしたりは、何度も……」
「いつだ。軍にいたころか? 冤罪の件でしばらくいただろう」
「軍にいたとき、……も、その後も」
「疑われたか」
 アキラは首を振った。
「わからない……けど、駐屯地から出た後も、しばらく外に誰か」
「……見張っていたのかもしれないな。じゃあ、おやっさんとこの寮を出たのも」
 何でも知っているふうの源泉を警戒する気にも、責める気にもなれなかった。今ならなにもかも吐き出せる気がして、アキラは頷いた。
「いつかあいつが、……人を、殺したりしたらと思って、信用できなくて、だから」
「バカだな」
 いきなり後頭部をわしづかみにされた。
「オッサン……?」
 源泉の胸に額を押しつける格好で、アキラは抱き留められていた。
「アキラ。そりゃあな、信用できないんじゃない。心配してるって言うんだ。……一人で怖かったろう」
(怖かった……?)
 言われて、意味が胸へ落ちてくるまでに時間がかかった。黙ったままでいると、源泉が嘆息するのが聞こえた。
「ったく、どいつもこいつも、ケンカばっかのガキでしょうがねえなあ。いいか、よく聞けよ。病気と闘うのはな、チンピラ叩きのめすようにはいかないんだぞ。ねじ伏せようとするんでも、かわすばっかりでもダメだ。おまえさん一人が強ければなんとかなるってもんじゃない。大体アキラ、闘わなきゃいけない相手の姿も形もわからなくてケンカができるか? いっくらおまえさんが強くたって、そりゃあムリだろ。それに、見えない拳に鼻っ柱殴られりゃ誰だって痛いし、怖いに決まってる。アキラ、おまえさんがやってたのはそういうことだ。無謀なことだとは思うが、本気でケイスケが心配だからこそできるんだ。誰にでもできることじゃない」
 源泉は一瞬、小さく呻くように息を吐いて言葉をとぎらせた。
「俺は舐めてた。あいつが病気だってわかっていても……正直ぞっとした」
「でも、ケイスケは……ケイスケだ」
 反射的にそう、口にしていた。源泉が眉をひそめたのが嫌だと思った。
 意味が伝わったのか、源泉はすぐいつもの人なつこい笑みになる。
「……そうだな、よくがんばった」
 そう言ってもう一度抱き寄せられ、肩をやんわりと叩かれた。
「違う」
 源泉の慰撫する仕草に、アキラは強い反発を覚えて、囲い込まれた腕の中で首を振った。
「俺はなにもできない。なんとかするのはあいつ……ケイスケにしか」
「なに言ってる。自分が必死になって相手に力を尽くせばできることなら、そんなに大変じゃない。違うか? 見守るだけ、受け入れてやるだけってのは相当なことだ。胆力がいる。家族だって親子だって、投げ出したくなるもんだ。いいか、アキラ。おまえさんは、大変なことをよーくがんばったんだ。俺が保証してやる」
「オッサンは……」
「ん?」
「どうして、そんな」
 どうしてそんなことを言うんだ、とアキラは最後まで言葉が紡げなかった。そんなことをいきなり言うから、喉元になにかが詰まって目頭が痛くなる。
「どうしてって、そりゃあおまえ」源泉の声が頭の上から聞こえた。「おまえらガキが心配だからだよ」
 そう言って、肩をゆっくりと大きなてのひらが撫でてゆく。
 やめてほしかった。そんな強い言葉ではっきりと思い知らされたら、焼き付いてしまって取れなくなってしまう。
(俺は……怖かった)
 ケイスケが怖かった。ずっと怖くて心配だった。
 自分の一言でラインをあおって、変貌してしまったケイスケが。
 殺してやる、とケイスケから自分へ向かって放たれた殺意が。
 アキラに嫌われたと思ってどうでもよくなった、という告白が。ひたむきな目が。
 全部、怖かった。
 ケイスケがおかしくなるたび、自分の過ちを見せつけられるような気がして、だから、優しくしたかった。優しくしてやれば、ケイスケが喜ぶと知っていたから。許して全部を受け入れたら、怖いと思ったすべてを帳消しにできる気がしたから。
 ──そんな、浅ましい自分なんて知りたくなかった。
「あんた、ひどい」
「そりゃねえだろうよ、アキラ。心配してひどいって言われるなんざ、心外だぞ」
 非難めいたセリフでさえ、どこか暖かかった。こんな暖かさは知らない。こんな、理屈抜きの心遣りと、無償のぬくもりだけをくれる手のひらは。
「もう一回……言えよ」
 ひどく小さく、くぐもった声で言ってみる。少しだけ、自分から源泉の胸へと体を埋めた。
「ん? ああ、いいぞ。いくらでも言ってやる」
 源泉はアキラの声を間違いなくすくいあげてから、頭をくしゃくしゃと撫でた。
「ずっとひとりで怖かったな、アキラ。おまえさんは、これ以上ないってくらいによーくがんばったんだ。俺が保証してやる」
 自分のわがままに、深いところへと染み入る声と、さらりと頭を撫でる手を、惜しげもなく与えてくれる。
 ひどい子供扱いだ、とほんの少しだけ癪に障ったけれど、今ならすぐに眠れる気がした。
 ──背後で堅い、叩きつけるような音がしたのは、そのときだった。

:::

 立て続けに激しい勢いで打ち鳴らされる音がし、アキラは驚いて振り返った。
 視界には扉がふたつあった。ひとつはさっき源泉が荷物をあさっていた部屋で、扉は内側へ向かって開け放たれたままだ。そしてもうひとつは、堅く閉ざされている。
「ケイスケ……?」
 隣の部屋で寝ている──そう言っていた。
 見上げると、源泉が険しい顔をしていた。
「起き出すにはちいと早いんじゃねえか、オイ」
 源泉がつぶやいたところで、また、中から身のすくむような音がする。
「……俺が行く」
 言うと、源泉がぎょっとした。
「アキラ、待て。いくらおまえさんでも……オイ!」
 源泉の制止をきかず、アキラはソファから立ち上がって扉の前へ立った。
 扉へ手のひらを当てたとたん、ガン! と内側から強い震動が伝わってきた。拳ではなく、何か堅いものを叩きつけるような音だった。わめき声のようなものも聞こえてくる。
「ケイスケ……」
 慌ててドアノブをひねったが、手のひらにがちりと抵抗が返り、それ以上回らない。
「オッサン、鍵、開けてくれ」
「待て、人を呼んでくる。相手をするのはムリだ」
「ダメだ、早くしないと。このままひとりで放っておいたら、あいつがたぶん死ぬ。その部屋、窓くらいあるんだろ」
「……バカ、おまえ、そんな」
 源泉が絶句した。
「ひとりにしておくと死にたがるんだ。俺を殺そうとするときもあるけど」
「バカヤロ、そういう言い方はよせ」
 源泉がきっと険しい顔で睨みつけてくる。なに食わぬ顔で言ったのが、気に入らなかったらしい。
「仕方ないだろ、本当のことだ」
「だとしたら、おまえさんが飛び込んで行くのは、そりゃあ飛んで火にいる夏の虫ってやつだろう」
「かも、しれない。……でも平気だ、なんとかする」
「なにが平気だ。だから、少しは人を頼れってさっきからあれほど……」
「そっちこそ、なに言ってるんだよ、オッサン。落ち着けよ」
 あきれたように言うと、源泉がますます声を荒げた。
「おまえこそ人の話を少しは聞け! 俺はな、そうやって一人で全部なんとかしようと思うな、って言ってるんだ」
「そんなこと思ってない。オッサンを頼ってもいいんだろ」
「ああ、そう。そうだ、だから──」
 源泉が吐き捨てるような口調でなにか言おうとするのを、アキラは自分の声で強引に遮った。
「だったら、今から俺とケイスケの二人にしてくれ。ここへ誰も入ってこないように。こんな状態のケイスケを、他の人間には見せられない。俺ひとりじゃそこまでは手が回らない……助けてくれ、頼む」
 きっぱりと言うと源泉が息を呑んで、恨めしそうにうめいた。
「おまえ……」
「なんだよ、頼れって言いだしたのはオッサンの方だろ」
 ずっとひとりきりで堪えていた。それを暖かい手のひらで、さんざん無遠慮にかき回したのはこの男だ。ならば、自分のしたことに責任を取れというのだ。それくらい言っても、罰は当たらないはずだ。
「そんなこと言っておまえ……ああもう! 畜生、どうする気だ!? あんな、暴れてるケイスケを相手に一人で! 確かに俺はいい年したオッサンだがな。勝ち目のない試合に、おまえさんを平気でおっ放せるほど達観しちゃいねえんだ。戻ったらおまえらがふたりして冷たくなってた、なんてオチはゴメンだ!」
「案外気が小さいんだな、オッサン」
「言ってろ! このガキが」
「俺は、ケイスケをなんとかする。俺だけはあいつを見捨てたりしないって、もう決めてる。どんなふうになっても、ケイスケはケイスケだ」
 そう言って、アキラは傍らに立つ源泉を振り仰いだ。
 源泉はひどく驚いた顔をして瞬いてから、瞳をふせて大きなため息をついた。
「……このガキ、晴れ晴れとしやがって。さっきまで半ベソかいてたクセに……ったく」
 ぶつぶつ言いながら、源泉は尻のポケットから鍵を取り出すと、ドアノブの切れ目に差し込んだ。
「行ってこい。取り返しがつかなくなるってことがどれほど嫌なもんか、一応知ってるつもりだ」
「オッサン」
「あんまり危ないようなら、俺も割ってはいるからな。覚えておけよ、いいな」
 暗に、身の安全を人質にするような言い方をしてみせる。
「あんたそれ、性格悪いな」
「ひねくれたガキの相手なんざ、正気でやれるか」
「……違った、大人げないんだな」
 呆れたように呟いてから、アキラはなるべく音を立てないようにノブをゆっくりと回した。

:::

 わずかに扉を押すと、ちょうつがいの擦れる音がひどく大きな音に聞こえて、アキラは息を詰める。
 だが、部屋の中はしんとしていた。
 意を決して、扉を押し開けてみる。
 最初に目に入ったのはなにかの残骸だった。
(……イス?)
 扉に叩きつけたのだろう。イスの脚だけが扉のすぐ手前に、残りの部分はもげて部屋の隅に転がっている。机の上にあったらしいものも払い落とされ、袖机は引き出しが全部抜かれて、中身ごと放り出されていた。
 更にその向こう、部屋のちょうど中程に膝をついてしゃがみこんでいる影があった。
「ケイスケ」
 びくりと肩を跳ね上げて、ケイスケが顔を上げた。表情をこわばらせて震えながら、口元が「来るな」という動きをした。喉元を押さえ、後ろへと後じさっていく。
 距離を埋めようとアキラが一歩進むと、ケイスケがまた下がる。
「大丈夫だ」
 アキラが問いかけると、ケイスケは首を振った。
「大きな音を立てない方がいい」源泉が小さく呟いた。「それから、光。もう日が昇っちまってるから、カーテンは開けない方がいい。ラインの脳炎症状は運動過多、興奮、不安狂躁から始まって、錯乱、幻覚、攻撃性、筋痙攣を引き起こす。外的刺激があるとますます怯えるからな」
 アキラは無言でうなずいた。そうやって名前が与えられ、正体が明らかにされると、得体の知れない不安定な感触が少し和らいだ気がした。
「ケイスケ、うちへ帰ろう」
 アキラはさらに進み出て、ケイスケに向かって手を伸べた。
「迎えに来た」
 だが必死に首を振るばかりで、ケイスケは手を取ろうとしない。後じさって、背を勢いよく壁にぶつけた。
「落ち着けよ」
 ケイスケとの距離は、もう腕を伸ばせば届くほどしかなかった。壁際に追いつめられた格好になると、ケイスケは目に見えて怯えた。歯の根が合わないほど震えている。
 アキラはかまわずに、間合いをそのままに床へ膝をついて、ケイスケの肩へと軽く触れた。
「……っ!」
 瞬間、目を見開き、ひっと風なりのような声を上げて、ケイスケはアキラの手を勢いよく振り払った。
「ケイスケ、大丈夫だ」
 声を押し殺して噛んで含めるように言い、もう一度手を伸ばし──今度は強引に腕の中へと抱き込んだ。
「……ぅあ、ああ、あ、あ!!」
 ケイスケは闇雲に腕を振り回して、絞り出すような悲鳴をまき散らした。
「もうそれ以上動くな……傷が開く、ケイスケ」
 誰もがすくみ上がりそうな声を上げながら、アキラの腕の中でケイスケは暴れた。
 空を切った打撃がアキラの頬を張り飛ばし、胸に強くめりこんだ。
「──っつ!」
 あまりの痛みに目眩がし、目の前の光景が歪む。危うく意識が遠のきそうになったところを、歯を食いしばって堪えた。
「う、ぅ……ッあ、ぅは……あッ!」
 喘鳴のような荒い息を吐き出しながら、なおもケイスケは身もだえている。グズグズと腰から崩れ落ちて行き、アキラが上から抱きすくめる格好になった。
「おい、ケイスケ、しっかりし──痛……ッ!」
 いきなり腕に熱が走り、見ると腕の中程を噛みつかれていた。
「ダメだ、ケイスケ!」
 とっさに勢いよく振り払い、アキラはケイスケの上にまたがって押さえつけた。
 今ケイスケが自分の血を口にしたら、どうなるかわからない。
 しかも、すぐ後ろに源泉がいる。ケイスケがもだえ苦しむところを見てしまったら、彼はほどなくアキラの血の正体に気づくだろう。
 ひょっとしたら、源泉はとっくに知っているのかもしれない。この体を巡る血が、ナルニコルであることを。
 だが、生涯をかけてプロジェクト・ニコルを終わらせるのだと堅く誓っている男に、自分から告白する気にはまだどうしてもなれない。
 それに、もし今の状況で源泉に手のひらを返されたら、とうてい太刀打ちできない。
「アキラ!」
 背後から源泉の鋭い声が飛んで、心臓が跳ね上がった。
「……っ、いいからオッサンは黙って部屋から出てろ……ッ」
「そんなわけに行くか! いいからもう、ひとまずそいつを放せ!」
「嫌だ、俺は見放さない、絶対に……!」
 怯えきったその瞳には、今なにが映っているのだろう。
 自分は、どう見えているのだろう。
「ケイスケ」
 呼ぶと、腕の中でケイスケが顔を歪めて喚いた。聞いているだけで自分まで苦しくなる。
 痛みや悲鳴ごと、ケイスケを抱き潰してしまいたい。このまま全部取り込んで、自分の腕で溶かしてしまえたらいい。そうしたらこんな、身を切るような思いをしなくてすむのに。ひとりにならなくてもいいのに──ケイスケも、自分も。
「大丈夫だ」
 もっと優しくしたいのに言葉がわからなかった。だから同じ言葉ばかり、何度も何度も繰り返した。
「大丈夫だから、──ケイスケ」
 なおも手から逃れようともがくケイスケを、離すまいと全身で抱き留めた。
(温度がある──生きてる。息をしてる。声がする)
 それだけでもいいと思った。
(……ケイスケだ)

 もう、少しも怖くはなかった。