(まいったなあ……)
彼が知ったらとても困った顔をするに違いないので、呟きは胸の裡にとどめておいたけれども。
庵原朋実はひっそりと息をついた。
くだんの「彼」──近藤諒は今、他の誰でもない自分のベッドの上で丸まっている。一度目を覚ました後、横になったらまた墜落するように眠ってしまった。疲れたのだろう。
シーツに散った髪の毛を、そおっと一房、指に絡めてすくい上げてみる。諒の細い黒髪はさらさらとしていて、まっすぐで、とてもきれいだ。
(「さわってよ」)
指先に火花が散った気がして、朋実は慌てて手を引っ込めた。諒を起こしてしまったのじゃないかと冷や冷やしたが、規則正しい寝息と胸の起伏にほっと肩をなで下ろす。
朋実は自分のてのひらをじっと見つめた。
諒も、こんなふうに感じていたのだろうか。自分のてのひらが触れたところから、まるで生まれたての熱が破裂するみたいに。あの日から、ずっと。
諒の頭をなでてやるのは好きだ。けれどもそれは、あくまで親愛の情であったはずだ。彼は同じ職場の同僚で、後輩で、同居人で、人なつこい弟分で──ノーマルな男だったから。
ついさっきまで、そう信じて疑わなかったのに。
拒絶されたのだと思ったら、かっとなった。強引に引き寄せても、きつく脅してもまだ逃げなかったから、いっそうつなぎ止めたくなった。
(「さわってよ」)
言われて、目眩がした。とどめの一撃だった。あんなことを言われて立ち止まれるほど、できた人間じゃない。
こんなはずではなかったのに。
こんなことをするつもりは全然なかったから、家に上げたのに。
(本当に、まいったなあ……)
朋実は面伏せて口元を覆った。
:::
「庵原、引っ越すって?」
店を閉めてから明日の仕込みをし、エプロンをたたみかけたところでオーナーから声をかけられた。
「あ、はい」
「近藤も連れて?」
「そうですよ」
朋実がさらりと言うと、オーナーは隠そうともせずに渋面を作った。
「嫌な予感はしてたんだ」
「なにがです?」
「とぼけるな。おまえ、アレに手を出したろう」
真っ正面から言われて、朋実は返答に窮した。彼は自分の性癖を知っている。何しろ、彼と最初に会ったのは当時朋実が勤めていたバーで、そこはいわゆる、そういった性癖の男性ばかりが密やかに集まる店だった。
もっとも、オーナーはゲイではない。あの日、彼は会社の同僚に無理矢理店へ連れてこられたとかで、たいそう機嫌が悪かった。おかげで頭から終わりまでひたすらむっつりと黙り込んでいたから、ほとんど言葉は交わさなかった。その後、偶然に町で会い、彼が脱サラしてカフェを開くという話をたまたま聞き出すことがなかったら、ここで働くこともなかっただろう。縁というのは案外、おもしろいものだと朋実は思う。
「おまえのおかげで近藤が上の空だ。おまえら来月のシフト、別々にするからな。まったく、ノンケには手を出さないなんて、偉そうに言ってたクセに……」
「出しませんよ、ふつう。知ってるでしょう」
「じゃあどういうことなんだ」
「報告義務ありですか?」
「あたりまえだ」憤懣やるかたないといったふうに、オーナーは宣言した。「近頃、近藤が挙動不審で俺の皿が割れる。それも、大事なやつから順番にだ。どうしてくれる」
そう言う顔が本当に真剣で、思わず朋実は小さく吹き出した。厳つくて生真面目な顔をしているが、こう見えてカフェに対する心意気と、食器への愛を語り出すと止まらない男なのだ。
「それすごく可哀想な話ですね」
「この人類存亡の敵め。あんまり悪事を働くと、近藤をクビにしてやるぞ」
恨みがましい目つきで見られ、朋実は肩をすくめてみせた。
「皿が割れなければいいなら、俺がやめます?」
「……馬鹿者。雇い主を脅迫するな」
苦虫をかみつぶしたような顔で、オーナーが睨みつけてくる。だがそれは、朋実の言い分が脅迫になり得るのだと、素直に白状しているということだ。
昔から荒っぽい口を利く男だけれども、根があけすけで素直な性分だと知っている。だからこそ朋実は彼の下で働く気になったのだった。
「大体おまえ、面倒なことにするなよ。陰気なウエイターにお茶やケーキなんぞ運んでもらっても、誰ひとり嬉しかねえんだからな」
「ひどいなあ、俺そんなに顔に出てますか」
「晴れ晴れとした顔しやがって、それくらいのこと、何年も毎日顔をつきあわせてて、わからいでか。ついこの間までアンニュイだったクセに、調子のいいやつめ」
「そんなにしっかり観察されているとは知らなかったな。じゃあ罪滅ぼしに、可哀想なオーナーにひとつだけ教えてあげますよ」
鼻をならすオーナーに、朋実はにっと笑ってみせた。
「俺が手を出したんじゃなくて、出されたんだよ。──それじゃお先に」
さらりとそう言って、朋実は背中を向けた。絶句している気配が伝わってきたが、気づかないふりをすることに決めた。
:::
家にたどり着くと、諒が転がるように飛び出てきて出迎えてくれた。
「おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
何度も繰り返されたやり取りなのに、ここのところこうした些細なことが妙に気恥ずかしい。それは諒も同様らしく、自分から勢いよく飛び出してきたものの、なんとはなしに声が尻つぼみになる。その先の言葉がなかなか出てこないようだった。
よく考えてみたら、朋実とて寝た男と同じ屋根の下で暮らしたことなど一度もない。暮らすどころか、部屋にさえ入れたことがない。いくら情がわいても生活に立ち入られるのは煩わしい気がしていたし、ありがたいことに今まで相手にも求められたことはなかった。たぶん意識はせずとも、自分の周りには忌避する色合いの空気がまとわりついていたのだろう。
必要以上には触れない──からだも、こころも。そんな暗黙の了解が互いのどこかにあって、危うい均衡を保っていたような気がする。たぶん心のどこかで、ゲイである自分をまだほんの少し後ろめたいと思っているから。開き直っているふうでいて、本当はどこかまっとうな世の中に背を向けて立っているのだと知っているからだ。
ふと朋実は、別れてから一ヶ月にもならない男のことを思い出そうとした。恋人という立場になって、寝た男。自分よりも背が低くて、線が細くて、派手に遊ぶのが大好きで、跳ねっ返りと見せて本当は心弱い、年上の男だった。だが、思い出せたのはそこまでだった。体で結ぶ行為以外、お互いに積み上げたものを指折り数えようとしても、なぜだかうまくいかない。我ながらずいぶんとひどい話だ。
あの日、朋実のことを散々なじった後に別れを切り出してきた、彼。もしも自分がこっぴどく振ったらひどく辛い思いをするのだろうな、と冷えた心で相手を眺めながら、彼の口から滑り出てくる悪態を甘んじて受けた。朋実は完全な悪人となって店を出た。あとは街の喧噪に消えて、そこで全部が終わる──はずだった。
(あんなこと、したことなかったのにな)
つきあっている間、彼から引き寄せられたことなど、覚えがない。暗がりとはいえ、外でキスをしたことも。なのに──やはり縁とは本当に不思議なものだと思う。彼がわざわざ追いすがってきて、自分を路地へ引きずり込んだりしなければ、最後の口づけなどとガラにもないセンチメンタルなことをしなければ、諒との関係は未だにただの同居人だったはずだ。
「ええと、……遅かったね」
靴を脱いでいると、その場にとどまっていた諒が声をかけてくる。
「五十日だからな」
「木曜日だから、俺が休むと人も足りないもんね……ゴメン」
「いいさ。今日は課外授業だったんだろう?」
「うん。出たら単位くれるって言うもんだから」
「そりゃあ、行っとかないとな」
「そうなんだけど……あ、ご飯はいいんだよね」
「ああ、まかないを食べてきた。諒は?」
「俺は冷蔵庫にあるもので適当に……あっ、風呂わかしといたよ。ビールも冷やしといたし。飲むよね? 俺も一緒に晩酌していい?」
「よし、じゃあなんか簡単につまみでも作るか」
「あ、そしたら俺がやる。朋実さんは風呂入ってきなよ。この前食べた辛味噌だれのつくねとかどう? 残ったタネ、冷凍してあるよ」
「いいな」
言いながら立ち上がり、何気なく手を伸ばして諒の髪に触れた。
「わっ……!」
諒の瞳が細められ、肩が震えた。瞬間、自分もしまったという顔をしていたのだと思う。諒がさっと気まずい面持ちになった。
年上の、手慣れた自分がそれとなくリードすべきなのはわかっている。しかも相手は普通の男で、男同士の関係にとまどうのは当然のことだ。自分の方が彼を安心させてやらないと、と思う。
けれども実は内心、自分の方こそおよび腰なのだ。諒が、普通の男だから。今まで恋人にも同居人にも感じたことのない些細なことを、ついつい意識してしまう。必死に表面を取り繕っているけれども、やはりひとつ屋根の下にいれば伝わるのだろう。だから諒はいつまで経っても落ち着かないままだ。毎日そんなことでは疲れてしまわないかと心配で、心配するほど意識してしまう。その繰り返し。
(ダメだな、……ほんとうに)
すまん、と言って、諒の頭の上から手を引っ込めようとしたときだった。
ばちん! と音がするほどものすごい勢いで、手の動きが遮られた。
諒の、頭のてっぺんで。
自分のてのひらが、諒のてのひらにはさまれた。
「あ……え、えっと……っ」
自分の頭の上に両方のてのひらを乗せたまま、諒がみるみるうちに真っ赤になって、ほんの少し首をすくめた。
「あの、俺、そうじゃなくて、その……ちょっとビックリして」
「諒、あのな……無理をしな──」
「ぜ、全然!! 大丈夫っ、俺めちゃくちゃ平気!」
諒があんまりにも必死の形相で言うので、朋実は思わず吹き出した。
声を押し殺し、しばらくそのまま肩を振るわせ続けていると、やがて困ったような拗ねたような声で、朋実さん、と呼ばれた。
「うん、そうだな。俺も大丈夫だ」
笑ったまま答えた。笑ったら不思議なほど、こわばった体からするりと力が抜けて、ほどけていた。
「その、……さわるってわかってれば平気なんだけど、急だとどうしても、なんかビックリして。朋実さんの手、少し冷たいし……けど俺」
「じゃあ、今からさわらせてくれ」
「──え?」
諒が聞き返すように瞬いたけれど、無視した。朋実は空いた片腕で諒の前髪を払いのけ、額へ小さな口づけを落とした。
「あ」
ぎゅっと目を閉じたから、その隙にまぶたへ。
ほんの少し恥ずかしげに顔を背けたから、今度は下から捉えるようにして唇へ。
「ん……っ!」
驚いたようにぱちりと目を開いたから、わずかに唇を離した。ひるんだわけではなかった。今度はわざと舌先を覗かせるようにし、触れるか触れないかの位置から──
「諒」
低くささやいて、もう一度キスをする。
驚いてなにか紡ごうとした諒の唇を舌先で割って、今度は深く。
「ふ……、ぅ」
舌の動きに翻弄されているところを見計らって、膝を割り込ませ、諒の背を壁に押しつける。不意をついた動きに、びくりと諒の下腹が削げた。同時に鼻の奥へ抜ける呼気と、喉の奥をならすようなくぐもった声音が口元からこぼれ落ちた。緊張して身を固くする諒を少しでも楽にしてやろうと、てのひらで背筋を緩やかになでてやる。だが諒はますます体を縮こませた。
「力、抜きな。怖くないから」
「……ちが……っん」
ついばむようなキスの合間にささやき、朋実の手は諒の背骨をなぞって、下へ下へとゆっくり下りてゆく。諒がふるりと震えて、背中をほんの少し反らせた。腕を下ろすタイミングを見失ったのか、まだ自分の手で朋実のてのひらを縫い止めたままだ。下にある朋実のてのひらへかすかに爪を立て、甘い痛みを食い込ませてくる。頭を抱えるような格好で、力の入りすぎた腕がぶるぶると細かく震えていた。
(「朋実さんにさわられるの、すきなんだよ」)
ふと思い出すと、体の中がお湯を浴びせたみたいにどっとしびれた。
なんてことを言うのだろう。こいつは。どういうことをするのだかも知らなかったくせに。
そんな、殺し文句みたいなことを、軽々と。
さわっていないところなどひとつもないように、真昼の太陽の下でその感触を思い出して震えるくらいに、自分の声を聞いたら立っていられないくらいに、諒の体を巡る甘いしびれを残らず掴み上げて目の前に突き出してやりたくなる。
「と、もみさん、ちょっ……待って」
「ん?」
諒が急に、床へへなへなとしゃがみこんだ。
「大丈夫か」
「ゴメン。……くらくらして、待って」
自分も諒の脇へしゃがみこむ。すると膝を床へつけたころには、胸がひりつくような子供じみた衝動など、すっかりどこかへ姿を消していた。そんなふうに胸を喘がせて、目許を潤ませる諒を見たら、どうしたって優しくしてやりたくなってしまう。なだめるように髪をすいてやった。
自分の心がアンバランスに揺れて、ひどく疲れる。
今までは仕事から帰ったら、シャワーを浴びて、ビールを煽って寝るだけですんだのに。余力のあるとき会う約束をして、待ち合わせをして、自分が立てたプランで遊んでからホテルでキスをして、眠ればよかったのに。
今までこんなに疲れたことはなかった。……こんなに疲れるものだったなんて。
「朋実さん……」
ろれつの怪しい声音で、諒が名前を呼んだ。どうした、と返そうとした矢先、諒がためらいがちな指先で、朋実のシャツをぎゅっと掴んだ。
「俺も、さわっていい……?」
そう言って、見上げてくる。驚いて息をつくと、答える前に諒のてのひらが頬をそっと包んだ。
それから何度か首を左右に傾けて、吐息がかかるほどの距離で行ったり来たりを繰り返した後──触れるだけの口づけをした。
「朋実さん、……ゴメン。俺、本当に……平気なんだよ」
唇が掠めそうな距離で諒が切れ切れに呟いてから、額と額をこつんと当てた。熱い体温が触れた場所から染みてくる。
「無理は……少ししてる、かも。でも嫌だからじゃないんだ、本当に。いろんなことが初めてすぎて、その……そんなふうにするんだ、とか思っていちいち全部驚いてて。けど俺、朋実さんにちゃんとさわってもらって気づいたんだ」
額を離して、息を深く吸ってから諒がささやいた。
「やっぱり、俺、さわってほしかったんだなって」
消え入るように言ってから、真っ赤になって目を伏せた。
「本当は少しおっかなかったけど、裸足で逃げ出したいような気がするときもあるけど、……気持ちいいって思えて──本当によかった」
一気にそう言うと、諒は大きく長い息を吐き出し、ことりと朋実の肩へ頭を乗せてからそおっと寄りかかってくる。
朋実は何も言わずに諒の背に腕を回し、力を込めて抱きしめた。まるで抱き潰すような勢いに、諒の呼気が一瞬詰まる。背中が反り返り、朋実の背へしがみつくようにして腕が巻き付いた。
そう。さわったのは俺の方かもしれないけれど、手を出してきたのはこいつだ。俺じゃない。
本当に──いきなりなんてことを言い出すんだろう。何度ひとを脅かせば気がすむんだろう。甘く見られているのか、それとも安心されているのか。こちらも少しくらい脅かしてやらないと、割に合わない。力ずくで引き倒して、本気で揺さぶってやったら一体どういう顔をするだろう。
けれどそう思う一方で、本当に大丈夫なのか、気持ち悪くはないのか、内心辛いのではないだろうかとどうしても心配になる。
気持ちが、諒を真ん中において、メトロノームのように揺れている。
疲れる。
今まで、なんて手を抜いていたんだろう。
胸に隙間なくわき上がるこの思いを、言葉にするなら愛おしいと呼ぶのだろうか。
行ったり来たりする気持ちの振れを、恋と呼ぶのか。
(「面倒なことにするなよ」)
そう言われたけれど、無理かもしれない。こんな思いは初めてだから、自分がどうなるのかもわからない。
「……うん、俺もよかった」
「朋実さん……?」
だけど。
いまさら、やめられるわけがない。
いろんなものを全部飛び越えて、いきなり胸に飛び込んできた──この恋を。
荷造りして、全部まとめて、持って行こう。どこまでも。
【蛇足】
2006年1月、1冊にまとめていただきました。
本編は漫画ですが、興味がおありでしたら、お手にとってみてください。当時、自分たちのテーマは「ヒゲ攻め」、雑誌のテーマが「同棲」でした。朋実さんの顔が、もう、好きで好きで! 巻頭カラーだったり、単行本の表題作になったりしたので、カラーがいっぱいあってすごく嬉しかったです。(しかし、スマートな大人の攻めは初めてだ、と思ったら、彼の心中はあんまりスマートでなかったという……)